kurayami.

暗黒という闇の淵から

狐の婿入り


 薄暗い店内で、僕は目を覚ました。携帯の時間を見ると昼の午前十時。店内は窓がないせいで、時間感覚が狂う。時間の情報がなければ夜だって疑わないと思う。
 隣を見れば、先輩の美夏さんが寝息を立てていた。一瞬疑問に思い、すぐに思い出す。添い寝してくれって言われたんだ。
 美夏さんに毛布をかけベッドルームを出ると、店長が会計室でパソコンを触っている。脇にあるエナジードリンクを見る限り、一晩中寝ていないのだろう。
「おはようございます」
「ん、おはよう。有希くん」
 パソコンを覗くと、新しく入った女の子の紹介ページを作っていた。
「新人の子、入ったんですか」
「ああ、しかしどうも、掛け持ち臭い」
「あらま、要注意ですね」
「うん。ところで、今日夕方五時から予約入ったぞ」
「わ、ありがとうございます。男ですか、女ですか」
「女だ」
「ああ、女ですか。わかりました」
 夕方なら、一度家に帰って整える時間がある。
「一度帰って支度しますね。ああ、あと美夏さんまだ寝てます」
「寝かせとけ。おつかされん」
「はい、お先失礼します」
 服を着替えて外に出ると春の快晴が広がっている。

 僕が水商売の職について、一年と三ヶ月が経った。
 親戚のおじさんに、半ば売られるような形であの店に辿り着いた。女性向けのサービスも始めてみたいということで、初の男性キャストとして僕が選ばれたらしい。しかし、そんな急に女性客が来るわけもなく、最初の半年はひたすら物好きな男性客を相手にした。嫌ではなかったけど、サービスという意味で不得意、でも逆にそれが良いという常連さんもいた。それから程なくして、女性客もちょっとずつ付くようになって、今じゃ努力の甲斐もあって半々ぐらいだ。
「アンタ、顔はいいんだから自信もちなさい」
 いつもそう励ます先輩の美夏さんを始め、店のスタッフたちはとても親身だ。この仕事を続けていられるのは、きっと先輩たちに恵まれているからだ。だから大丈夫。

 家に帰る途中、駅前の喫煙所で煙草を一本取り出して吸う。そういえば、煙草を吸い始めたのも、この仕事を始めてからだ。
 なんとなく髪を触ると、指が引っかかった。たぶん、昨日のお客さんに唾をかけられたせいだ。唯一の男性キャストという肩書きが引き寄せているのか、変なお客さんが多い。本番行為を求めるお客さんだっている、いるけど、頑張って、上手くかわしている。
 なんだかんだ、この仕事は上手くやっていけてる。すっかり裏の職という深海を自在に泳ぐ魚になった。全然辛くなんか、ない。

 ぽつりと、快晴の空から降ってきた雨粒が、煙草をかする。
 お天気雨が降り始め、僕の煙草の火を消した。
 青い空から勢いよく落ちる雨は、まるで僕の心を代弁しているかのようで、嫌になる。

 

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈深海魚〉〈お天気雨〉

ラブサイド、グリードサイド

 私の前髪は、左から右にかけて長い。左目は眉毛が出るぐらい。右目は前髪で隠れるようになっている。
 前髪をまっすぐ斜めに、切り揃えている。個性的だってよく言われるけど、この前髪には理由がある。
 私の右目が隠れるように長いのは、右側に立ちたがる君に、私の醜い虚ろな目を見られないためだ。
 私の目が醜くて虚ろなのは、自身の性格が目に反映されている。目は人の心を表すというからね。
 私は酷く、貪欲なんだ。その貪欲は、右側の君に向けられていることを、君は知らないと思う。
 君のことは愛しているし、大切にしたいよ。だけど、その一方で君のことを欲しがっている。
 私の想いは、愛情と欲が対になって働いている。だけど、非対称のようにその強さが違う。
 君への想いは愛情よりも、欲の方がとても強いんだ。醜いよね、失望、してしまうよね。
 そんなことも知らずに君は私の右側で笑っているんだ。無知で、とても可愛いらしい。
 そんな君のことが、愛おしくて欲しくなる。例え君が不幸になってもいいと思える。
 ああ、また、そんなことを思って、私は醜い。そんなんだから目が醜く濁るんだ。
 そのことを忘れないために、私の左目は出ている。左腕の現実を、見るために。
 私の左腕には、無数の懺悔と後悔と我慢が、線になって赤く、刻まれている。
 私の懺悔は心の内で君を大切にしきれていないこと。本当にごめんなさい。
 私の後悔は君を欲しいと思い始めたこと。愛情に留めていれば良かった。
 私の我慢は君に手を出すこと。日々、強欲を抑えるために必死なんだ。
 懺悔と、後悔と、我慢を宿した左腕を見るために、左目を出ている。
 自覚するために、意識するために。忘れないために。私は、醜い。
 君は何も知らずに、私の左腕を心配する、優しいね。好きだよ。
 だけど、その無邪気な目で、私を見ないことを心から願うよ。
 君は私のことを、大人しくて優しいと言うけど、違うんだ。
 でもどうか、誤解をしたまま、虚像の私から離れないで。
 だって、私には君を手に入れることは、到底できない。
 虚像の私を好きだって言うなら、私はそれが本望だ。
 それはとても哀しいけれど、側にいてくれるなら。
 私は喜んで、いつまでも、虚像のままでいよう。
 そのためにも、私は、醜い虚ろな目を隠そう。
 私の真実を確認するために左の目で見よう。
 馬鹿で可愛い君を、永遠に騙し続けよう。
 本当は君にいろんなことをしたいんだ。
 君のことを、私の手で不幸にしたい。
 君の身体の全て自由に搾取したい。
 君を、私の部屋に存在させたい。
 君を一人ぼっちにしたいんだ。
 許されないことは知ってる。
 だから、思うだけの強欲。
 最低なのも、知ってる。
 もちろん君のことは、
 愛してるよとても。
 本当にごめんね。
 許して欲しい。
 求めること。
 想うこと。
 非対称。
 永遠。
 欲。

 

nina_three_word.

アシンメトリー

半身の餓鬼

 脳は、右と左で役割が違うらしい。
 左脳は言葉を理解と思考の役割を持ち、右脳は、五感の役割を持つという。

「あれ、和春くん……右目の方が少し大きい?」
 俺の顔を覗き込んで、弘子がそう言った。
「ああ、そうなんだよね。気づく人少ないのに、よく気づいたなあ」
 弘子は、付き合い始めて一ヶ月の、俺の彼女だ。職場から近いということもあり、帰り道に俺の家で夕飯を食べてから帰っていく。
「左右非対称の顔なんて珍しい……って思ったけど、ほら、私とお揃いだ」
 弘子が、左目の下にある涙黒子を俺に見せてきた。
「なんでもお揃いにしたがるよな、お前」
「へへ、お揃いが増えると嬉しいじゃない。にしても、納得。いつも見るたびに、横顔の印象が違って見えてたからさ」
「そんなこと思ってたんだ」
「思ってたよ。和春くんが思ってる以上に、私は見てるんだから」
 その言葉を聞いて俺は頭を掻いた。確かに弘子は、俺のことをよく見ている。前に、左に重心が下がっていると指摘されたこともあった。
「あまり見るなって」
「なんでよ」
「恥ずかしいからだよ」
「心にも思ってもいないこと言わないの」
 そして、弘子は俺のことを理解し始めていた。少し欠けた、俺のことを。
「ええ、なんでわかるんだ。あーじゃあ、これは? 今日はうちに泊まっていけよ、ってのは?」
 俺の言葉を聞いた弘子が、目を輝かせた。
「それは本心だ! もちろん、泊まっていくよ」
 俺は、弘子が好きだ、愛している。物足りないものを埋めてくれると、信じている。

 ふと気づけば、浴室の中、弘子がバラバラになっていた。また、やってしまったのか。
 無意識での殺害は、これで何人目だろうか。もうそろそろ、足がつく頃だ。いや、いい加減捕まった方がいいのかもしれない。
 弘子は、親しくなりすぎてしまったのだ。無意識での殺害は、決まってオレと親しくなった人を殺している。ああ、とても好きだっただけに、今回も哀しい。
 こうした無意識の殺害の原因は、恐らく右脳のせいだった。
 子供の頃、あまりにも物忘れが酷く、脳神経外科で診察を受けた時のことだ。医者に右脳の方が発達している、と言われた。その発達の差は大きく、それが物忘れに繋がっていたらしい。
 そしてそれは、右脳の本能が原因だということに、最近になって気付いたんだ。右脳は、五感の役割を持つ脳、つまり、動物的脳だと言う。
 本能が、右脳が、自身を深く知ろうとするものは危険だと勝手に判断して殺している。きっと、そうだ、そうに違いない。
 ああ、また、隠さないといけないのか。今回も左腕だけが見つからない。いつも、左腕や左脚だけがないんだ。
 

 

nina_three_word.

アシンメトリー

 

 

ロスト

 頭が壊れるような爆発音と、眩い閃光。
 大地が回転するような衝動と、喜怒哀楽の人の声。
 停電のように、全てが突然止まり、音のない世界となる。
 強引な静寂と、逃げるような眠気と、
 全てを掘り起こす、高熱。

 

 

 目を覚ますと、冬の高い、灰色の空が、私の瞳に映った。
 灰色の雪が、空から降っていて、とっても綺麗だけれど、これで電車が止まったら恨むぞなんて寝呆けて、でも、いい加減目を覚まさないと遅刻すると、焦る。
 そこは、何かの、瓦礫の上。
 私は、なんでこんなところで寝てしまったのだろうと、身を起こす。身体のあっちこっちが痛くて、自身の寝落ちを恨んだ。
 服は愛着のあるブレザーの制服のままで、着替えなくて楽かもしれないと、怠惰なことを思った。
 起きて、一言目。何か伝える言葉があった気がするのに、思い出せない。代わりに口から漏れるのは、白い吐息。
 それは、世界に対して、誰かに対して言う言葉だったと思う。大切だって、教えられた気もする。
 辺りを見渡すと、何かの瓦礫が灰色の雪に飾られていた。
 ああ、学校に、行かないと。

 私は、通学路だと思うものを辿った。
 冬の朝は、とても静かだ。雪が降ると、世界は休息を取るように静かになる。今日は、世界の休日なのかもしれない。
 ふと、ある場所で足が止まった。それは、その場所が気になって止まったというよりは、歩いたその距離が「ここにあった」と言うからだ。
 大切な誰かがこの位置に住んでいた気がする。
 長い時間が積もって出来上がったその想いへの、シルエットしか思い出せない。大切な誰かが、その誰かへの称号が、関係の言葉が、思い出せない。
 君。という言葉が頭に浮かんで、すぐに消えた。
 でもそれは、とても、当てはまる気がした。

 歩いていくうちに、瓦礫はなくなって、私は何を恐れて急いでいたのかを、忘れた。
 広がる灰色の地平線は、私が忘れたことを怒るように、威圧的だ。
 一体なにをそんな、怒っているの。
 私は、私の名前すら思い出せないというのに。
 行動、名前、関係性、そんな言葉。
 それらを思い出せないということが、なんだか、お腹の辺りでもやっとさせる。
 とっても、哀しいんだ。

 日が暮れてきて、空の明るさが徐々に弱くなっていく。
 私はもう、その光に二度と触れられないと予感をした。動けなくなって、硬くも柔らかくもない地面に、寝っ転がる。
 次第に、重い夜の色が、果ての空から這い寄る。
 人も、色も、言葉も、その夜に潰されて見えなくなっていく。
 感情も、思考も、夜に蝕まれていくけど、どこか、安心した。
 頬を伝うものを、何かと思い出せないまま。
 言葉が、世界から失われていく。
 

 

nina_three_word.

〈物語の最後、言葉を失う〉

叶えた先は

 薄汚れた奴隷市場の中「世界で一番私は不幸なんだ」とでも言いたげな顔をした、その女を見たとき、商人の男は恋をした。
 その黒く淀んだ瞳、悲哀に満ちた表情は、なんて、美しいんだろう。絶対に誰にも渡してはいけない、商人はそう心に誓い、その奴隷の女に金を払った。
 奴隷は買われても、家に着いても、その不幸そうな無表情を変えることはなかった。まるでそれだ運命と受け入れるように。
 主人と奴隷という壁を、意識させないために商人は、奴隷を言葉で甘やかす。
「なあ、疲れただろう。今日は休んでもいいぞ」
「たまには、この毛布を貸してやろう。今日だけだぞ」
「ああ、よく出来た。偉い子だ。ほら褒美をやろう」
 商人は、奴隷に商品の余りである水飴を渡す。
「いい子だ」
 水飴を舐める奴隷の頭を男が撫でた。奴隷は、その虚ろな目を、地面に向けている。
「ん……そうだ、名前がいるな。……イクセリス、セリスなんてどうだ?」
 セリスと名付けられた奴隷は、黙って頷く。
 商人は、名前を付けたことで、セリスに対して更に愛情が深まった。
「ほら、髪を流してやろう」
「熱があるじゃないか、今日は寝てなさい」
「いいんだ、お前はそれで。大丈夫だ」
 絶やさず、セリスに甘い言葉を投げる商人。
 そんな日々を過ごすうちに次第に、セリスの目に、光が灯っていく。
「ご主人様、ご主人様」
 セリスは懐くように、商人を呼ぶようになり、それを商人は喜んだ。
「ねえご主人様。今日は良い天気ですね」
「今日も頑張りましたよ、だから、その、ご褒美が欲しいです」
「ご主人様、セリスって名前を付けてくれて、ありがとうございます!」
 その顔は次第に笑窪が出来るようになり、暖かい表情を商人に向けるようになった。
 しかし、そのことに、どこか違和感を得る、商人。
「大好きだよ、ご主人様」
 そのとき、これでいいと思っていた商人の、心情が決壊した。
「違う、違う……」
 商人が愛したのは、冷たく、世界の不幸全てを背負った、悲哀の天使のようなセリスだった。
 そこにいるのは、まるで幸せに満ち溢れた、暖かい少女。
 自身が恋した〈セリス〉を失った商人は、過ちに気付き、セリスを酷く扱うも、既に遅かった。
 〈セリス〉が帰らないと理解した商人は、絶望し、自身の屋敷に火を放つ。

 肥大し、引火した恋の暴走はもう、止まらない。

 縄を首に巻き、宙に下がる商人を、セリスが冷たい目で、見ている。
 全ては、セリスが自由になるための下克上。
 そして、水飴の商人に恋をした、些細な、マインドコントロール

 

nina_three_word.

〈水飴〉〈下剋上〉〈マインドコントロール

黄昏の語り手

 僕が子供のときの話だ。
 僕らは公園で遊ぶのが日課だった。特にジャングルジムで遊ぶのが好きで、よく高鬼をして遊んでいた記憶がある。
 夕暮れ時になると、解散と迎えの空気に包まれ、カラスが鳴き、どこか哀愁が漂う中。その人はいつの間にか、公園の隅に現れているんだ。
 紙芝居の、おじさん。
 いつも、ぼろぼろになった麦わら帽子を被って、色褪せた紺色の法被を着ている。髭面のその顔を、僕はよく覚えている。
 カンカンと拍子木を叩く音が、橙色の空に響く。お手伝いの、同い年ぐらいの子が、紙芝居が始まることを告げるんだ。僕らはその音を合図に、遊具を離れて吸い寄せられるように集まる。
 紙芝居が始まる前に、僕らはおじさんから、水飴を買っていた。
 僕らは、紙芝居か、水飴か、どちらに惹かれていたのかわからない。ただ、おじさんの元へ毎日、通っていた。

 全ての紙芝居は、おじさんの手作りで、聞いたことのないような物語ばかりだった。
 その中でも、特に人気のあった話は『下克上』だ。僕も、みんなもその話が好きで、そのリクエストは特に多かったと思う。

 ーーはは、じゃあ。今日はみんなも大好きな下克上の話を、しようか。

 しゃがれ声で、今思えば、感情のない声で、おじさんはそう言う。

 ーーそれじゃあ、始まるよ。

 自転車の荷台に置かれた、小さな窓を開いて、物語は始まる。

 ーーむかし、むかし、ある殿さまと、その家来がいました。殿さまは大変家来を気に入っていましたが、家来はというと、いつか殿さまより偉くなろうと、たくらんでいました。

 ーーある日のこと、殿さまが屋敷の留守を、家来に任せました。家来はこれは好機だと思い、殿さまの布団に、毒虫を忍ばせることにしました。

 紙は捲られ、悪そうに笑う家来の絵になる。しかし誰もそれを笑わず、目を反らすこともせずに、みんな、紙芝居を見ていた。
 どこか真っ暗な穴みたいな目をして。それはきっと、僕も。
 それから家来は毒虫を捕まえるために奮闘し、屋敷の中、森の中を探す。やっとの思いで毒虫を見つけた家来は、屋敷へと帰っていく。

 --しめしめ、これで殿さまをころせるぞ。
   しかし、そこに、殿さまが帰ってきました。

 --おい、お前、なにをしているんだ。その手に持っているものはなんだ。
   ああ、殿さまこれは違うんです。

 --これは、毒虫じゃないか、お前おれをころそうとしたな。
   申し訳ありませんっ。

 --殿さまは自身の立場をわからせるために、家来にお仕置きをするのでした。めでたし、めでたし。

 ちょうど、水飴を舐め切る頃、物語は終わる。僕らはワッと拍手をする。そして、

 ……夕暮れ時の、この後の記憶が、ないんだ。子供のときの夕暮れ時の記憶は、公園に始まって、紙芝居に終わる。明確には思い出せなくて、次のシーンは家に帰っている夜の記憶だ。
 僕らは、おじさんが来れば必ず紙芝居を見ていた。狂ったような頻度で。おじさんが、来なくなるまで。
 このおじさんが、来なくなった日を覚えていない。少なくとも僕が〈子供ではなくなったとき〉には既にいない。

 だからさ、おじさんは僕の子供時代の中で、永遠と生きている。
 それは、今も、記憶の中で。

 

nina_three_word.

〈水飴〉〈下剋上〉〈マインドコントロール

解けたミルキーウェイ

「なに頼むの?」
 男の子と女の子が、カフェのカウンターで可愛らしくメニューを見ている。
「私、私はねえ……ホットチョコレートもいいな。けど、ホットミルクにする」
「ええ、せっかくカフェきたのに? コーヒーとかにしないの?」
「だって、今日はそういう運命なんだから、仕方がないじゃない」
 女の子は「君にはわからないわ」と横顔を男の子に見せる。
「ふうん。あ、ねえ。靴紐解けてるよ」
 男の子が、女の子の足元を指差して言った。
「大丈夫よ。座ってから結ぶから」
 女の子はホットミルクを受け取りながらそう言って、一歩を踏み出す。
 靴紐が解けていたそのもう一歩が、靴紐に足を捕らえられて、バランスを崩した。傾く女の子の手から、ホットミルクが離れていく。
 器から、暖かく真っ白なものが溢れ、宙を舞った。


 真っ白の正反対、真っ暗の中。そこには煌めく無数の可能性の希望と、黒く目に見えない絶望への駆け足が、重力に束縛され、巨大な渦を巻いている。
 例えば、ほら、その青と緑の惑星の中。
 一人の男の子が絵描きになることを夢見て、絵を描いている。
 一人の男が、限界を感じ自身の絵画を破っている。
 二人の高校生が、愛を歌って未来を見ている。
 残された一人の女が、縋る過去に限界を見て消えようとしている。
 
 始まりがあって、終わりがある。それは銀河の束縛。
 もっと言えば、ほら、その橙色の惑星の中。
 物語が始まれば、いつか完結する。
 文明は創造と滅びを繰り返し。
 生あるモノには、死が訪れる。

 残されたモノには記憶が残り、やがてそれは消え、新しいモノを受け入れる。それは銀河の渦。
 言ってしまえば、その、記憶する恒星の中。
 思春期の記憶が揺らぎ、大人の記憶を受け入れるモノ。
 死んだ飼い主を忘れ、新しい飼い主を受け入れるモノ。
 自身を忘れ、新しい自身へと生まれ変わるモノ。

 希望と絶望が周りを飾り、始まりと終わりが端にあって、くるくる回る記憶が、渦を巻く。全ては重力によって回され、束縛し、その運命から逃れることはできない。

 しかし、突然起きた最初で最後の衝動が、全てをバラバラにした。
 絶望は輝き出し、希望は毒入りの蜜へとなった。
 始まりは永遠となり、終わりは永久となった。
 渦巻く記憶はミルクティーみたいに全部混ざって、頭を溶かす。
 絡まっていた巨大な天体は、靴紐みたいに解けて、バラバラに飛び散っていく。
 幸せは不幸へ。不幸は幸せへ。

 ホットミルクは、床へと落ちた。静かに一面へと広がる、真っ白は、まだ暖かさを残している。

 一つの銀河の終焉と、女の子の泣き顔。

 

nina_three_word.

〈銀河〉〈靴紐〉