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暗黒という闇の淵から

治験被害者


 その日の夕方。高梨修司は、大学の掲示板を見て、渡邊美沙教授の研究室を訪ねていた。
「失礼します。三年の高梨修司って言います」
 渡邊は奥の席に座り、パソコンを睨んでいる。その容姿は、教授というには若く、しかし大人の女性の在り方として決定的に何か欠如をしていた。
「掲示板にあったアルバイト、受けさせてください」
 高梨の言葉に、渡邊が顔をあげる。
「治験の件ね。まだ何の治験か聞かされてないはずだけど、いいの?」
「はい」
 金銭面で困っていたこと、身を削ることに躊躇のない高梨にとって、この治験の仕事は良い案件となっていた。
「そう。じゃあ、受けてもらおうかしら。もちろん治験内容は、内密にお願いね」
 そう言って、渡邊は書類を高梨に渡し書かせている間に、奥の実験施設に入り、小型のケースを持ってきた。
「早速だけど、いいかしら」
「えっ、体調整えるとか、そういうのは……」
「いいのいいの」
 渡邊が、水の入ったグラスと、白いカプセル剤を高梨に渡す。
 カプセル剤には〈楽〉と、一文字書かれている。
 書き間違えてるじゃないかと高梨は思いつつも、言われるがままそれを飲む。
「どうかな?」
「そんなすぐに反応が出るものなんですか? まだ身体には何も……いや、それにしても、治験って楽しいですね」
「うんうん、少し弱いかしら」
「なにがですか?」
 高梨はそう言って、自身のカルテに記録を残す。
「今、楽しいって思ったでしょう?」
「ええ、まあ」
「それでいいの。そのカプセルはね、言霊が入ったカプセルなのよ」
「言霊?」
 聞きなれない言葉を高梨が聞き返す。
「力や、意味、影響をもたらす言葉、とでも言えばいいかしら。例えば、今高梨君が飲んだのは〈楽しい〉という言葉ね。楽しいでしょう」
 少し逸脱した話に高梨は困惑する。科学でどうにかなる話なのかとも、疑った。
「いや、こんなに早く治験君が現れるとは思わなかったよ。はやく試したくてしょうがなかったの」
 渡邊が無邪気にはしゃぐ。
「ちなみにこれ、後何種類ほどあるんですか?」
「えっと、今あるだけだと八種類……いや、ううん、五種類かな」
 渡邊の言い直しに、高梨が少し、引っかかる。
「じゃあ、続きはまた明日から。この時間帯に来てもらえればいいよ」

 その夜、高梨は夢を見た。
 知らない男女の大人に連れられて、遊園地に行く夢を。
 夢の中で、高梨は少女だった。

「教授、あの、言霊って言霊を吐く人がいて、できるものですよね……」
 〈切〉と書かれた……〈切ない〉のカプセル剤を飲んだ高梨が、消るような声で渡邊に聞いた。
「ん、切なそうね、これもなかなか……えっと、言霊を吐く人? 高梨君はなかなかロマンチックなことを言うね。ええ、そうよ。言霊は、私が吐いてる」
 なるほど、と納得をした高梨は、夢のことを渡邊に話すことを止め、自身の中で飲み込んだ。
 実験三日目、〈楽しい〉〈元気〉〈調子に乗る〉〈切ない〉と四種類の実験が終わっていた。
「じゃあ、次はこれを」
 〈面〉と書かれたカプセル剤を、高梨が飲む。
 しばらくして、渡邊に凝視された高梨が、恥ずかしそうに目を逸らした。
「……これは?」
「それは〈面映ゆい〉ね。微妙な言葉も結果が出るか不安だったけど、大丈夫そうね」
 渡邊は、満足そうに笑った。

 治験最終日。今までの改良型を試すため、高梨はいつもの時間に実験室を訪れた。
「教授、高梨です」
 ノックをするも、返事はない。
 ドアノブを回せば、研究室には鍵はかかってない。高梨はそのまま中を覗いた。
「教授……?」
 そこに、渡邊はいた。渡邊ともう一人、シルエットが夕日に照らされ浮き出ていた。
 高梨がその空間に近づく。跪き、自身の首を絞め硬直しているそれは、同じ学科の鈴木教授だった。
「……仕方がなかったの」
 渡邊が、消えるような声で言った。
「薬を寄越せって乱暴するから、無理に〈希死願望〉のカプセルを……」
 力なく立ち上がり、渡邊は、高梨に近づく。
「まさか死ぬなんてね。ねえ。高梨君、君は私の味方だよね」
 高梨は後ずさり、壁に追いやられた。
 自然と伸びた渡邊の手が、指が、高梨の口の中に〈愛〉と〈依〉のカプセル剤を押し込んでいく。

 

 

 

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〈カプセル〉〈言霊〉

プラティヴィーナス

  高校の授業から解放されて、放課後。私は職員室にいる先生に課題を提出と、少しの立ち話を済ませて、徒歩五分の最寄り駅まで歩く。昼間に比べてとても寒くなった。私は、カバンから取り出したクリーム色のマフラーを丁寧に首に巻いた。
 空にはもう冬の青の面影はなく、遠くから赤と黄のグラデーションが伸びている。誰に見せるわけでもなく、見返すわけでもないのに、携帯で何枚か、その空を写真に収めた。
 私は朝方よりも、夕方の方が好き。それは始まりよりも、終わりが好き、ということにも通じる。
 そのことを自覚したのは……
「奈恵さんだ」
 声のした方を見ると、駅のホームにりっちゃんがいた。
「りっちゃん。もう帰ったと思ってたよ」
「図書室で本選んでたんだ。奈恵さんこそ遅くない?」
「あの、総合で出た、変な課題提出してきたの」
「あー」
 りっちゃんは、高校に入学してからの友達だ。
 家からの最寄り駅が、一緒だから。それだけの理由で私たちは、偶然の登下校を共にして、話す回数も多かった。
 私より頭ひとつ分大きくて、足が長くて、優しくて頭が良いりっちゃんは、私の憧れで、いつも話していて楽しいんだ。
 朝方と夕方、どっちが好きかだなんて話は、きっとりっちゃんとしかできない。
「今日も夕焼けが綺麗だね」
 電車から外を見たりっちゃんが、私にそう呟いてくれた。
「本当だ。でも、もう沈んじゃうなあ」
「沈むから、綺麗なんじゃない?」
「終わりがあるから、綺麗?」
「そう。人は死ぬから美しい、みたいな」
 りっちゃんの言葉に、少しどきりとする。同い年が言ってると、思えない。
「ちょっと怖いね、でもそうかも。完結するからこそ意味がある、みたいな」
「そういうこと」
 そういって、りっちゃんが私に微笑みをくれる。それを勝手に「よく出来ました」に変換して、喜んで、私は変態だ。
 でも。こういう、ふわふわした会話。芸能人がどうとか、メイクがどうだとか、そういうのじゃなくて、抽象的な……それがとても、私には心地良いんだ。
 電車を降りて、最寄り駅を出る。りっちゃんとは駅を出て、川を渡ったとこにある公園の前でお別れで、でもなんだかんだいつも、そのベンチに座って長話をすることが多い。
 毎日そういうわけじゃないから、そうなると、私はとても嬉しくなる。
「日が沈んだ後の、この暗い青色の空も、好きだなあ」
 ベンチに座ったりっちゃんが、そう言った。
「桔梗色だね」
「キキョウ色?」
 私の言葉に、りっちゃんが聞き返す。
「花の桔梗だよ」
「ああ、なるほど。そんな色があるんだ、知らなかったな」
 りっちゃんでも知らない言葉が、私の口から出たと思うと、恥ずかしくなった。
「良いね、桔梗色。響きも良い」
 桔梗色、桔梗色と、りっちゃんが繰り返し、呟く。征服にも近い喜びと、恥じらいがじわりと私の心に滲む。
 一番星が空の主役になる頃。私たちは公園でさよならをした。また明日って。

 人の死からの美しさ、桔梗色。些細なことだけど、また自覚と思い出が増えた。
 りっちゃんは私にとっての、一番星だ。
 いつ探しても、一番最初に見つけてみせる。

 

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〈 一番星 〉

疑問というドアノブ

 

 ドアノブと鍵の共通点として、ドアを開けるのに必要なもの、という点がある。
 ならドアノブと鍵の違いはなにか、備え付けかどうかという点もあるけど、僕が思うのは使う順番だ。
 ドアを開くには、鍵を入れ、最後にはそのドアノブを回す必要がある。
 ドアノブは、ソレを開くかどうかという、最後の選択となる。

 視界がぼやけていると意識し始めてから、もう一ヶ月が経った。
 流石に生活に支障が出ると思い、一昨日眼鏡屋で眼鏡を作ったけど、届くのにあと一週間もかかるらしい。もっと、簡単な眼鏡にすれば良かった。
 だから、一緒に暮らす彼女の顔が、はっきり見えないんだ。そのことを彼女に伝えたら、向かいの席から、隣に席に座ってくれるようになったけど、それでも、近づかないとはっきり見えないし、近づいても顔の全体が見えない。
 どんな、顔だったっけ。
「今日はね、カレーライスを作ったの」
 休日のリビング。君は隣に座って、目の前の料理を教えてくれた。そこにある料理はぼやけてはいるけど、確かにカレーの色と、あの匂いがした。
「ああ、美味しそうだね」
 少ない情報を頼りに、僕はそう言った。
「でしょ。貴方の好きな牛肉を使ったの」
「奮発したね。嬉しいよ」
 僕は食前の一礼をして、カレーを口に運んだ。水気の少ない、緩くない僕好みのカレーと、柔らかく煮込まれた肉を口で確認する。
「どうかな?」
「うん、美味しい」
 美味しいけど、これは、本当に牛肉だろうか。牛肉は、こんな味だったか。
 昔の話に、人肉を家族に調理して出した母親が、子供に何の肉か問われ「山羊の肉だべ、山羊の方が牛肉よりずっとうめえ」と誤魔化したというものがある。滅多に食べない山羊を出すことによって、子供の未知の肉への疑問を誤魔化せたわけだが、この場合の牛肉は、本当に牛肉だろうか。むしろ、この肉が、山羊でもおかしくないかもしれない。
 考えているうちに、視界以外の情報による信憑性の薄さの可能性に、気付き始める。
 〈カレー〉というのは、こういうものだったか。
「どうしたの?」
 彼女が、僕を心配して、隣で覗き込むような動作をした。
「あ、ああ、大丈夫だよ。ちょっと、顔洗ってくるよ」
 僕はそう言って、逃げるように洗面所へ向かった。
 情報が足りない、彼女は本当に、〈彼女〉だろうか。
 洗面所で水を流し、指先を冷やす。その刺激が疑う思考を落ち着かてくれる。少し、どうかしていたかもしれない。
 彼女は……彼女だ。間違いない。あの声、その心は、ずっと昔から変わらない。僕の彼女だ。
 すぐリビングへ戻ろう。僕は顔を上げた。
 すると目の前に鏡に、一人の男が映っていることに気づく。
「……お前は、誰だ?」
 崩壊を開くドアノブは、一つの疑問からだった。

 

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〈ドアノブ〉〈隣〉〈ゲシュタルト崩壊〉〈山羊〉

暖かさにサヨナラ

 あれは、悲惨な事件でした。
 その年の冬。一番の寒さを超えた日のこと。
 公園でのデートの途中、恋人の沙織の「喉が乾いたなあ」という一言を聞いた私が、自動販売機を探しに出た時のことです。
 公園の裏にあった、ビル隙間に存在していた裏路地に、私は吸い込まれるように入りました。
 その裏路地はとても長く、奥に細長い出口の光が見えていて、その光を見ているうちに、私はデートの最中だというのに、沙織を突き放すことばかりを考えてしまいました。
 いいえ、私は元々考えていたのです。沙織を突き放そうと、サヨナラを言おうとしていたことを。
 風船に空気を入れるように、徐々に膨張する想い。私はいい加減、限界だったのかもしれません。
 想いは、裏路地のなかで、加速をしていきます。
 沙織は、とても我儘な子でした。
 休日は、必ず会わないと怒るのは当たり前で、たまに、仕事を休めと言って 休まないときには仕事先に来ていました。
 とても、寂しがり屋でした。
 連絡は必ず返さないといけませんでした。出先で携帯の充電が切れたとき、家に帰り再起動させた携帯には、何十件という着信がありました。
 心配性で、独占欲が強くて、お節介。
 路地裏を抜けた先には、都合よく自動販売機が二つ並んでいて、私は少し悩んで、私が飲むブラックと、沙織が飲む缶コーヒーを買いました。二つとも暖かいものを。
 沙織は、コーヒーが飲めません。私のちょっとした抵抗です。
 コートの両ポケットに缶コーヒーを入れて、私は元来た道を戻ります。
 その道は、来た時に比べ、とても暗い印象に見えました。その暗さに引きずり出されるように、私は沙織への嫌悪の想いは増殖していきます。
 私の髪を触る癖だとか、嘘をすぐつく癖だとか、セックスの相性だとか。
 ああきっと、もう私のなかの風船は破裂していたんだ、そのときは、そう思って、近いうちに言うことを決めました。
 なんなら、この路地裏を抜けたら、キライだと言ってしまおう、そう考えて、暗闇を抜けると。
 何か、騒がしかったのです。ざわめきが、していました。
 不自然に車が止まっていました。
 まるで事故が起きたように。
 ああ、危ないな、沙織は事故現場を見てないといいな、なんて思い、横断歩道を渡るとき、沙織のピンク色のスカートが鮮血の水溜りの中に、見えてしまったのです。
 ああ、なんということでしょう。その不自然に曲がったソレは、沙織でした。
 一つ一つ、私の中で思考が整理されていきます。
 キライだってもう、伝えられないこと。
 次に、破裂したと思っていてた風船は、本当は膨らんですらいなかった、ということ。
 こんな自分だから甘えてしまう沙織を、突き放そうと思っていたこと。
 沙織と、もう、話せない、こと。
 それらに気付いてしまったことが、悲惨な私の事件でした。
 それは、ポケットの中の缶コーヒーが、冷えた頃のこと。

 

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〈風船〉〈缶コーヒー〉〈悲惨〉

月の作り方

 巨大な、肉塊があった。
 それは正六面体の肉塊。喉を鳴らし、脈を打ち、その意思は疎らでまるで、宇宙のようにバラバラにまとめられいた。
 それを見た世界が、斜めに切断し、二つの三角柱の肉塊に切り分けた。

 三角柱の中身は、姿を変え、骨となり、頑丈さを誇った。
 もう一つの中身は、姿を変え、筋肉となり、力強さを誇った。

 やがて、
 骨だった中身は、花となり。その色を魅せた。
 筋肉だった中身は、星となり、その煌めきを放った。

 花だった中身は、魚へ、限られた自由を楽しんだ。
 星だった中身は、虫へ、限られた時間を楽しんだ。

 魚は、交換日記へ、人形へ、セーラー服へ、化粧へ。ピンクに。
 虫は、運動靴へ、車へ、学生服へ、髭剃りへ。インディゴに。

 ピンクは〈私〉に。
 インディゴは〈僕〉に。
 ……

 

「なあ、どこまで覚えてる?」
 三角柱の中で〈僕〉が、隣の三角柱の〈私〉に尋ねた。
 透明な三角柱が二つ、並んでいる。
「今、思い出せるのは、私が透き通るような、白の少女だった頃かしら」
 〈私〉は遠くを見るように、答えた。
「嘘だね。僕はそんなの見てないぞ」
「あら、私たちに嘘なんて、付けるのかしら。少なくとも疑うことは、できたみたいだけど」
 少し茶化すように〈私〉が言った後、寂しそうに目を伏せた。
「……君はもう、そんな顔が出来るようになったんだね」
「そういう貴方は、とっても、悲しそうな顔してるわよ」
 驚いた顔をして〈私〉が〈僕〉に言った。
 俯く〈僕〉に向かって〈私〉が、両手の親指と人差し指で三角の窓を作り〈僕〉を覗いた。
「なにそれ」
「わからないわ。私の記憶にあったの。きっと、景色を差別化する技術。貴方の気持ちがわかるんじゃないかって」
 〈僕〉も〈私〉に習い、三角の窓を作る。
「どう、見えるかしら?」
「寂しそうに、見えるよ」
「奇遇ね、私も、そう見える」
 二人は、そう呟きあって、また泣いた。
 その三角柱を、涙が満たすまで。

 

 満たされた涙は、二人の姿を変え、その透明な三角柱を破った。
 〈僕〉は王に。賢者に。
 〈私〉は女王に。魔女に。

 賢者は、全てを知り、全知全能の脳へ。〈私〉とずっといられる術を知った。
 魔女は、全てを呪い、不滅の心臓へ。〈僕〉とずっといられる身体を手に入れた。

 全知全能の脳はその姿を精神へと変えた。〈私〉をずっと待った。
 不滅の心臓はその姿を心へと変えた。〈僕〉をずっと待った。

 待ち続けた精神は、長い年月をかけ、暗い下弦の月へ。
 待ち疲れた心は、長い年月をかけ、輝く上弦の月へと変わり果てる。

 空に浮かぶ、二つの半月。
 それを見た世界が、二つを巡り合わせ、大きな一つの月に変えた。
「やっと、一緒になれたね」
「待ち疲れちゃったわ」
 どこまでも、月は暗闇の空へと、落ちていく。
 永遠にどこまでも、二度と離れないまま。

 

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〈半月〉〈三角〉

ツイソウ

 大雨の中の、新宿歌舞伎町。夜の水商売の待合室で、一つの悲鳴。
 一人の青年が、大柄な男の背中にナイフを突き刺していた。
「ア、 アアッて……めえ」
 男が言い切る前に、青年は刃物を何度も突き刺し、その度に飛び散った血が待合室と、青年にかかる。
 大柄な男は床に倒れ、青年が止めに刺さっていたナイフを足で沈める。まだ生きていた男が身体を痙攣させ、絶命する。
「まずは、一人目」
 青年が、ポケットから取り出したカードを確認する。カードには五つの欄があり、一つ、花の判子が押されている。
 唖然とする水商売の女を横目に見た青年は、待合室を出た。

 残業を命じられたサラリーマンの男が、ネクタイを緩め、一人職場に残り業務をこなしていた
 今の時期を越え次第、昇格の決まっていた男にとって、残業は苦ではない。指示を受ける側から、指示をする方へ昇格をすれば、あの馬鹿な女どもを扱うと、男は心に決めていた。
 もう一息と、デスクから立ったとき、一人の青年がデスクに挟まれた通路に、立っていた。
 頭の上にハテナが浮かぶ男、明らかにスーツではないその青年は、場に相応しくはない。
 青年がゆらりと、近づき、男がその殺意に気づいたときには、もう、遅かった。
 至近距離から撃たれた拳銃の弾丸が、男を貫く。
 間髪入れず、倒れた男に、青年は弾丸を打ち込む。血肉が、夜の職場に散乱する。
「二人目だ」
 カードに、二つ目の花。

 三人目は、青年と同い年ぐらいの男だった。バンドマンを夢見るベーシスト。
 大学からアルバイトへ向かう途中のその男を、青年は走るトラックの前へと押した。男は、ハンバーグのタネのように変わり果てる。
 四人目は、口が達者な高校生の男。
 下校中だったその男を、青年は後ろから殴りつけた。喚く男を、近くにあった用水路に頭を押し付け黙らせる。もがき、暴れる男は次第に大人しくなり、死んでいく。
「あと、一人」

 黄色く空を染める、夕方の公園。
 少年と少女が砂場で、城を作り遊んでいる。
「まだ……子供じゃないか」
 少年の背中を見て、青年が呟いた。それに気づいた少年が振り返り、静かに青年を見つめる。
 青年は、ポケットの中に入っていたカードを指先で触れ、覚悟を決める。
 音もなく、少年の首に手をかける。
 力のない抵抗が長く続き、手が、垂れ下がる。
 五つ目の花。
「これで、全員です」
 青年は、そう言って、カードを少女に渡した。

「有難う。これで全員死んだのね」
 少女が、微笑みながら答えた。
「ええ、貴方の記憶の中で。もう思い出すこともないでしょう」
 時が止まった黄昏の空の下。少女がベンチに座り、脚を組む。
「本当に。ああ、本当だ。思い出せない、なにも」
 嬉しそうに、空を見上げる少女。
「一ついいですか?」
「なあに」
「なぜポイントカードなんですか? いや、わかりやすくて良かったんですけど」
「ああ、それはね」
 青年の疑問に少女は答える。
「私だって鬼じゃないの。せめて、私の中で死んだ人数ぐらいは、覚えておきたいじゃない」
 少女は、女子高生へと、女子大生へと、オフィスレディへと遊ぶように姿を変え、水商売の女へと姿を戻した。
「さいですか。なら、貯めただけの景品が必要じゃないですか?」
 青年の言葉を聞いて、女が笑う。
「ええ、そうね。じゃあ、君のことを一生忘れないであげるよ」

 

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〈ポイントカード〉を貯める。

夜の海

 二月の役目を終えた月末、三月を迎えた深夜。
 私は何かから逃げるように、早足に家を出た。
 春が近いと油断をして手に取った薄手のコートは、まだ残る冬の気配に適応できそうにはなかった。
 いや、思えばいつだって、この街は冷たい。
 底冷えとした、この街は。

 この街に来て、どれぐらいの時間が経ったのだろう。一体、幾つもの冬を越してきたのだろう。
 まだ二十と数年しか生きていないのに、幾年もの間この街で暮らしている気がする。
 長いと感じるのは、苦痛からか、それとも。
 この街で様々な物語を見てきた。それは光ある物語であり、暗闇の中での物語であり、窓辺にそよ風が吹き、死体が転がるような物語。それらは雨粒のように、無数にこの街に降り注ぎ、物語は等しく終焉を迎える。
 私は横目に、その物語を見てきた。でも、舞台という境界線を降りれば、そこは、誰もが他人で、感情が淘汰された底冷えとした街。
 私は、その街の住人であり役者で、気づいたときにはもう、冷えた物語は始まっていた。
 嫌になる。私だって、もっと感情のある物語を紡ぎたい。明暗に分かれた物語に揉まれたい。
 でも、どう足掻いても、私は平凡で冷たい物語の登場人物の、一人なんだ。

 冷たさから逃げるように、私は街の外れへ向かって歩く。路上では、数多の物語が上映されている。
 それぞれの舞台の上で、感情を持って台詞を吐き、泣く、笑う。そんな姿に憧れる。
 私が今いる場所は、舞台の雰囲気と違い、とても冷たい。
 この街から一度抜け出さないといけない。幾年という時間を破って、この街を出れば、きっとこの物語は完結するんだ。
 街の外れ、私は坂道を登る。様々な物語の台詞が、遠退いていく。心なしか冷たくない、そう感じるのは慣れてしまったのか。
 街の境界線まで、もう少しというところで、息があがって、ふと後ろを振り返る。そこは、私の底冷えとした街の夜景が、全て見渡せた。
 ビルの明かりは海のようにうねりを見せ、魚のように車の明かりが動いている、妖しい航空障害灯は海蛍みたい。それぞれの物語が明かりとなって、暗闇となって、この景色を作っている。
 それがとても綺麗で、私は悲しくなる。舞台はこんなにも整っているのに、なぜ、私の物語は冷たいんだ。
 私が悲観するべきは、舞台ではなくて、私自身なのかもしれない。
 数多の物語の中で、死体のように冷たく動かなかった。その幾多の波に削られ続けた私は、シーグラスのように、私の意思がないんだ。
 私の物語は、まだ、始まってもいない。

 

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〈シーグラス〉〈底冷え〉〈境界線〉