kurayami.

暗黒という闇の淵から

終焉を求めた廃線跡

 蝉が鳴き始めそうな、梅雨の中頃、夕方。山の中。
 期末テストを終え、振替休日を迎えた二人の高校生……片山吉弥と白谷茜は、廃線跡の上を歩いていた。
「意外と荒れてるもの、なんだね」
 生い茂った雑草を足で踏みながら、白谷がそう言った。
 そんな白谷のスカートの中、露出した足に雑草が当たっているのを、片山が心配そうに見ている。
「痛くない? 痒くない?」
「大丈夫だよ。それに、私が言い出したことだもん」
 今度の休日に、廃線跡の上を歩きたい。そう言い出したのは白谷だった。
「ねえ、線路の上から落ちたら負けゲームしようよ。ちょうど二本あるし」
 白谷が、バランス感覚を使ったゲームを片山に提案する。
「疲れたくないから、しないかな」
「じゃあ、私一人でする」
 断られたことに悲しむフリも見せず、白谷がふらふらと廃線の上を歩く。背が高い分、白谷のふらふらは大きく揺れていた。
「怪我しないようにな」
「そうね、怪我したら吉弥君、困るでしょう」
 罪悪感を得たくないもんね。そう背中で、白谷が言った。
「この廃線跡はいつ見つけたんだよ」
 話を変えるように、片山が言った。
「この前、吉弥君を誘った日の、朝。ネットで」
「テスト前だったのに、勉強してなかったのか。ばかだなー」
「余裕あったもん。あっ」
 そう言って白谷が、線路からずるっと落ちて何事もなく着地した。
 その瞬間を見た片山が、不安そうな顔をしたのを、白谷は見逃さなかった。
「そろそろかな」
 白谷が前方を見て、そう言った。
「なにが?」
「終点」


 山の中、その木造の駅は、獣の死体のように静かにそこに在った。
「この駅、誰が使ってたのかな。山の中なのに」
 片山がホームに上がり、朽ちたベンチを見つめながら言った。
「近くに、廃村があるって聞いたから、それだよきっと」
 ホームに腰をかけ、白谷が足を揺らす。
「終点に来てみて、どう?」
 白谷が振り返り、片山に聞いた。
「どうって。うーん。あまり廃墟とか来たことなかったから、ちょっとだけ感動してるかな。時間の経過があからさまって良いね」
 片山の感想を聞いた白谷が、小さく溜息をついた。
 それを見た片山が、困る。
「なんだよ」
「ううん、こうして二人で線路を歩いて『二人で終えれたね』だなんて、人生の比喩に例えてくれないんだなあ、と思って」
 そう言って、白谷が石を線路に投げる。
「俺が言うと思った?」
「言わないと思う。でも、私は思ったの。例え歪んだ愛でも、なんでも。離れても。終点には、二人でいたいな」
 へらっと、白谷が笑ってそう言った。
 そんな白谷に、片山は困ったように「そうだな」と笑って、目を逸らした。
「まあ、でも、これで終わりじゃないからね」
 そう言って、白谷が立ち上がる。
「線路の先にも道がある、とか言わないでくれよ」
「ええ、言わないけど、あるかもしれないでしょう。もしかしたら、星の砂で出来た、白い砂浜に出るかもしれないし」
 なんだそれ、と片山が顔で言った。
「そうじゃなくて」
 白谷がその高い背で片山に近付き、目線を無理矢理合わせた。そして流れるように、蛇のように、腕を片山の首に回す。
「ここには、誰もいないよ」
 終点を望む白谷が、終点を先延ばしにするように、片山の耳元で囁いた。
 

 

nina_three_word.

〈 終点 〉

 

回想列車

 私が最初に感じたのは、懐かしく、そして、心地の良いf分の1の揺らぎ。次に、視覚的暗闇だった。線路を走る音、閉鎖的圧迫感から、電車に乗っていることを理解した。
 しかし何故、明かりの無い暗闇の電車なんだろうか。何故電車に乗っているのだろうか。何処を目指しているのかもわからない、思い出せない。
 何処を、目指している……? その疑問に、何故か違和感を覚えた。目指すべき場所など、あるのだろうか、と疑問は別の疑問へと変わっていく。自分の中で記憶以上に、大切な何かが抜け落ちているような、そんな気がした。
 車窓の外を、小さなランプが通り過ぎていくのが見えた。やはり、地下を走っているらしい。
 一瞬の光か、それとも気配か。他にも複数の人がいることに気付いた。しかし、私同様に、じっとして動かない。
 動かないのは電車のマナーだからというより、安心しているからではないだろうか。少なくとも私は、何処かへ運ぼうとしているこの電車に、安心している。余計な心配はいらない、線路が辿った先に答えがある。そんな当たり前に、私は普段以上に安心していた。
 ふと、見知った駅を通過していくのが見えた。あれは、そうだ。桜新町駅だ、あの赤いタイルはきっとそう。だとしたらこれは、田園都市線なのだろうか。
 着く先は、渋谷か、それとも。
 気付いたついでに、一つ思い出した。私は、生きる価値のない人間だ。
 毎日のように、この田園都市線を使っていた。自宅から会社に向かう途中、乗り換えのために。家族を養おうと、身を削って働いていた。
 だがそれもある日、それが当然の景色だとでも言うように、会社は倒産していた。職を失った私に、家族はきつく当たった。不運が続き、新しい職は見つからず、家族にも捨てられたのが、私という人間だった。
 ああ、そして私は。
 電車が、地下を抜けた。暗かった車内に光が溢れた。車窓の外には住宅街が広がっている。
 車内には、疎らに人が座っていた。どの人も、目に光はなかった。
 やがて電車は、多くの人がホームで待つ二子玉川駅を通り、多摩川に差し掛かる。しかし、車窓から見える多摩川は、私が知っている川幅ではなかった。まるで海のように広く、幻想的なエメラルドグリーンを揺らめかせている。
 そして、緩くカーブを描いた線路の先に、白い砂浜が見えた。
 死人を乗せた田園都市線は、砂浜の中で停車する。ゆっくりと、何年かぶりに立ち上がり、電車を降りて砂浜へと足を沈めた。
 白い砂の正体は、死を迎え殻となった原生生物、星の砂だった。そして瞬時に理解して、意識が少しずつ溶けてゆく。
 もはや飛び込み、痛かったなんてことは覚えていなかった。それはきっと、他の人たちも同じだろう。
 飛び込み自殺者の意識は海へと溶けていき、その身体は無数の星の一部となっていく。
 こんな贅沢な最期でいいのだろうか。
 私たちには、とてもじゃないが、美し過ぎる。
 


 
nina_three_word.

〈 回送列車 〉

〈 星の砂 〉

 

ストロマグラナ

 植物というのは、太陽光無しには生きていけないモノが殆どだ。しかしそれを欠点とし、弱いモノと見るのは間違いだ。むしろ悩ましいほどに、逞しい。
 人間のように様々な栄養、阿呆みたいな欲、贅沢な時間に、価値ある経験を、植物は必要としないだろう。ああ、それを理由として強さを判断するのは、僕の前向きな主観が関係してくるところなんだけど。まあ、聞いて欲しい。
 僕が尊敬し、愛おしいと思い、崇拝する精神は、まさに植物に近かった。いや、クロロプラスト。光合成をする細胞小器官……葉緑体と言った方が、近いだろうか。人の光を糧に、成長し、生産し、息をする精神なんだ。しかし、その本質は〈光〉ではなく、紛れも無く淀んだ美しい〈闇〉だ。
 その美しい色素を含んだ肌で、多くの人に愛され、光に恵まれる。その影響を精神に及ぼし、明反応をしていた。それは知識として、記憶として、一度確かに生産されるが、僕が崇拝する精神は、そこで終わら無い。

 光を材料に、彼女は暗反応し、闇を作り出す。

 「よく頑張ったね」を「必死な様が笑えるね」に。
 「助かったよ有難う」を「お前にお似合いな役回りだ」に。
 「今までごめんね」を「これからはより酷いことをするから覚悟しろよ」に。
 夢を叶えようとする意思を、失敗し堕ちる可能性に。
 まだ見ぬ明日を、今日という犠牲の副産物に。
 生を授かりし生物を、死が訪れる存在に。

 「愛してる」を「お前には俺みたいのがお似合いだ」に。

 輝く光を濁った闇に、作り変えていく。
 そうすることで、世界を恨みたいわけではないらしい。ただただ、それを受け入れ、世界を人よりも暗く見ている。酷く歪んだ、美しい葉緑体のような精神だ。惚れ惚れとする。
 そこから見える暗い世界は、どんなものなのだろうか。深海の底から太陽を見ようと、虚しく泡沫も吐かずに静かに沈んでいくような、そんな景色を僕は考える。
 ああ、僕も暗く淀んだ深海世界に一緒に沈みたい。
 僕が崇拝する貴方の精神と共に。
 ……だなんて、僕の目の前で珈琲を片手に、本を読む彼女本人に言えない。どう変換するのか気になるが、何よりも恥ずかしい。側に置いてくれるだけでも御の字だが、やはり、僕はもっと彼女の精神に触れたい。
 ああ、そうだ。その本を読み終えた頃に、海にでも誘おうか。
 希死念慮と囚われようが、それでもいい。
 例え僕を藻屑と見ていても、それでも構わない。
 僕は貴方を、何処までも、何時までも。深海の底に落ちても。永遠に、崇拝し続ける。
 
 
nina_three_word.

葉緑体

〈 精神 〉

〈 深海 〉

内包されたラブレター

 ねえ。退屈じゃない?
 僕もそう思ってた。だけど、卒業式中に筆談はまずいんじゃないかな。
 大丈夫だよ。私たち後ろの方の、真ん中だし。それに最後の最後って、先生たちも喜んでるよ。
 そうなのかな。そうだとしたら、かなしいなあ。
 悲しいの。前から思っていたけど、健吾君って繊細だよね。
 そうかもしれない。そうやってヤチヨに名前覚えてもらってるのも、なんだかうれしいし。
 最後まで漢字弱かったね。八千代。全部小学校で習う漢字じゃない。
 いや違うどの漢字か覚えてなくて自信がなかっただけだから。
 そっかあ。
 ごめん。でも、下の名前は書けるよ。陽子。
 よくできました。ねえ。筆談って少し、ドキドキするね。
 見つからないか、心配?
 それもあるけど、手書きの文字、だけだからかな。
 たしかに。八千代は字きれいだよね。
 そういう健吾君は、字に癖があるよね。平仮名も多くて、子供みたい。
 きずついた。
 傷付くと思って言ったの。
 なんでそういうこと言うかなあ。
 最後だから、許して?
 最後だなんて。これから先もあるのに。
 あのね、私、健吾君のこととても好き。
 どういうこと。
 これ、一応告白ね。自身の気持ちを告げているのだから。でも、付き合いたいとか、思ってないの、思っちゃいけないの。
 いつから好きだったのさ。
 一年生の冬。一緒に帰ったとき。私の家の話を聞いてくれたときに、決定的に。
 そうなんだ。うれしい。でも、付き合いたいとは思ってないんだ。
 うん。というより、付き合っちゃいけないと思う。
 どうして。
 私ね。汚されちゃったの。先月。
 どういうこと?
 察しが悪いね。つい先月、梵木君にキスされたの。隣のクラスの。もちろん合意の上で。
 そうなんだ。
 健吾君の、上手いことフォローできない感じ好きだよ。繊細なのに。
 いや、その、なぜか知らないけど、悲しくて。
 もしかして、嫉妬してるの?
 これは、そうなのかな。少し、なぜか、にくい。
 ああ、やっぱり私、健吾君のこと好きだな。だけど、だから終わらせるの。待てなくて彼を受け入れた、私のために。
 ぼくは、どうしたらいい?
 教えてあげるね。この筆談した紙を、死ぬまでずっと持っていて。
 うん、わかったよ。
 この紙には、健吾君を好きな私と今この時間が、内包されているの。ここで私は生き続けるし、健吾君を愛し続ける。だからどうか、この紙が日に焼けても、色褪せても、何度でも読み返して欲しい。私からの、最後のお願い。
 わかったよ。ぼくも、愛してる。
 嘘つき、けど、そういうとこも知ってた。好きだよ。

 


nina_three_word.

〈 色褪せた 筆談 〉

飼育される正しさ

 小学校の校舎。鳴り響くチャイムが、三十秒遅れの授業終了時刻を告げた。しばらくして校舎から子供達が、黄色い声を上げて疎らに出てきた。
 背中に背負った、黒に赤。中には水色から緑まで。
 これからどこで遊ぼうか、今日はこんな面白いことがあったよ。そんな話題が飛び交う中、少女が一人、赤いランドセルを揺らし、小走りに校庭の奥へと向かって行く。
 飼育係りの少女は、網越しに白い兎の元気な姿を見ていつものようにホっとした。飼育小屋の歪んだ扉を開き中の餌皿を回収し、校舎へと向かう。
 途中、すれ違った男子生徒が少女に向かって、意味もなく「ばーか」と言い放つも、それを無視される。次にすれ違った女子生徒に少女は遊びに誘われるも、それを丁寧に断って、校舎へと入っていく。
 人の気配が減った校舎の中、少女は二階の職員室へと上がった。先生の「いつもありがとうね」という言葉と共に兎の餌を受け取り、少女は飼育小屋へと戻っていく。
 餌を食べる兎の背中を、少女が口角を上げて撫でる。こうして撫でることができるのは私の特権とでも言うような、独占欲に満ちた表情を無邪気に浮かべて。
 校舎から、最後のチャイムが響く。
 このチャイムも、この安全も、少女の兎と戯れる時間も。全ては秩序が有り、正しい。
 そして僕の願いは、この秩序を壊すことでしか叶えられない。
 /
 僕が今まで一人で暮らしてきた家の中、玄関から一番奥。白い扉を開けた先に、飼育係りだった少女が、閉ざされた窓を見つめていた。
 僕の方を見ると、か弱い声で「おはようございます」とだけ言った。僕もそれに「おはよう」と返す。敬語やめなよと言っているのに、なかなかやめてくれない。ランドセルも、いつまでそうやって抱えているつもりなんだろう。
 僕が仕事を辞めて、少女を誘拐して、飼育係りになって、一年が経った。
 最初の内は酷く泣き叫んでいた。何度だって元の世界に帰ろうとして、諦めようとしなかった。少女の健気さを保ちつつ、壊さないように。僕の世界に慣らすのに、だいぶ時間がかかった。
 その無邪気な美しさに、僕は惚れ込んでいた。幼さの中に芽生えつつある貪欲。教育され絶対に犯してはならないと思う罪、必要以上に求めてしまう罰。そんな健気さが心から欲しくて、ずっと見ていたくて、変えたくて、僕は少女を誘拐した。罪の意識なんて、そこにはなかった。
 少女が僕の作った料理を口に運ぶ。最近じゃ「美味しいです」だとか「ちょっとしょっぱいんですね」だなんて、感想を言ってくれるようになった。
 今ではこの無秩序が、少女にとっての秩序になりつつある。
 そのうち、笑顔が絶えなくなる。それが普通になった時、僕はまた、整った秩序を壊すだろう。
 何度も何度も壊して、その健気さが僕を独占しようとするまで。

 

 

 

nina_three_word.

〈 ランドセル 〉

〈 飼育係 〉

〈 無秩序 〉

虚しくも描いていた

 私の人生は、予定変更の繰り返し。運命は、何度だって狂った。
 幼い頃、私は花屋さんになりたかった。有り触れた少女の夢だったけれど、私は本気だった。でもその夢は中学生で変更された。
 友達が書いていた自作小説に影響されて、私は小説家を目指すことにした。文芸部に入り、自分好みの小説を書いていた。花言葉を多く使った小説。身内での好評価に私は満足していた。いつの間にか、そこで止まって、進めないまま。
 そんなぬるま湯に浸った中、私は高校受験の時期に入った。繰り返し勉強をする一方で、私は高校生活への夢を膨らませていた。知り合いのいない環境での、変わった新しい私。百人の友達。甘酸っぱい青春。順調な勉強。
 充実した、苦渋のない生活の予定。
 もちろん、そんな予定は変更されていく。
 心の内を曝けだせないような友達が二人。陰湿でちくちくとした陰口。下心しかない余裕の無い男子。平均下のテストの点数。そんな現実が作り出す暗い暗い、面白みのない、私。
 彩りのある青春の予定は、入学して瞬く間に、モノトーンが似合う三年間の予定となった。そして、三年間は予定通り、終わっていった。
 それが当たり前で、普通だった。受け入れることはできた。
 けれど、思い描いていた予定は、確かにあったんだ。
 いつの間にか、花屋も、小説家の夢も、彩りのある時間への予定希望も消えて、私は無難に三流大学へと入っていた。
 もはや、夢なんて無くて、将来の予定は未定などない。私は、空っぽだった。
 大学二年。そんな空っぽを好む、物好きな男が現れた。私はもちろん、その男を受け入れた。例えそこに下心があったとしても、こんな空っぽを受け入れてくれるならと、虚しくも喜んでいたからだ。
 男は優しかった。私の代わりに物事を決めてくれた。私の手を引っ張ってくれた。私を、決めてくれた。私は空っぽのままだったけれど、外は暖かさで満たされて、安心させてくれた。
 ああ、そして私は願ってしまった。このままずっと、一緒にいれたらなんて、そんな予定を。
 それは、もちろん、
 男は他の女へと移って行った。後ろから背中を押して殺す予定も立てたけれど、それも叶わず、今では一生呪う予定でしかない。

 幸せへの予定は、今では息を吸い、吐く、生に執着した予定だ。

 私の望んだ予定は、何一つ実行されなかった。
 私の運命は何一つ、正解へと辿れなかった。
 私の運命は、時間は、未だに何一つ完成していない。
 未完成な私、中途半端な、運命。
 それならば私は、中途半端なりに、身を流れに任すだけだ。

  


nina_three_word.

〈 予定変更 〉〈 中途半端 〉

 

ぎやく

 左腕の付け根が熱を帯びたように痛くなり、俺は鎮痛剤を探した。机の上で山になっていた原稿のなり損ないを、片手で払い除ける。ひらりと一枚一枚、原稿用紙が舞って床に落ちていく。真っ暗な窓の右上、時計を見れば、短針と長針が“2”を指していた。
 最悪なことに、錠剤は机の上にはなかった。痛みと見つからないことへの苛立ちを抑えるように、俺はテレビの電源を無意識に点けていた。気の利かないテレビがニュース番組を流し始める。まだ若いニュースキャスターが、街中で火事が起こったことを話していた。
 台所に入れば……ああ、忘れていた。作りかけのハンバーグが、ボウルに入って置かれている。鎮痛剤を見つけた後で、ラップをかけなければ。そういえばまだ晩飯を食べていない。ハンバーグは、今の気分ではないかもしれない。そう考えている内に左腕がまた痛みを訴え、俺を歩かせる。
 ふらふらと廊下を進み、洗面所へと入った。鏡の中にまるで、ゾンビのように顔が真っ青な俺が映る。そんな俺の視線が、斜め下、洗面台に鎮痛剤の小瓶を見つけた。
 白い錠剤を三粒、水で流し込む。しかし、すぐには痛みは引かない。飲むから効くんだと言い聞かせ、左腕を何度も撫でて、ベッドに腰を掛ける。息を整えているうちに次第に痛みが引いていく……気がした。
 こうして薬を飲んだときにいつも思うのは、本当に薬が俺を治しているのか。本当は、俺が治しているんじゃないか、ということだ。
 所謂、思い込みの力。
 馬鹿ほど効くというが、俺は俺が何処まで馬鹿なのかだなんて、理解出来ていない。それは誰しもがそうだろう。どの見方をして馬鹿と見るかなんて、決まっていない。
 薬を飲んだから、治った。
 セックスをした気がするから、虚を孕んだ。
 お前が「君は誰よりも元気だ」って言うんだから、きっと俺は大丈夫なんだろう。
 だとか。
 人は自身の内側にある限り、嘘を真実に、真実を嘘に変えれる力がある。それは、制御出来る範囲を超えている。
 テレビのニュースが、街中の火事を報道し続けている。電車が脱線し、街に突っ込んだのが原因らしい。
 ……そう、例えば、例えばだ。俺は本当は、この夜、この家にいなくて。事故でひっくり返った電車の中で、屍と息をする肉塊に埋もれていて。左腕が鉄に挟まって千切れて無くなっていて。ポケットに入ってた白いラムネを、鎮痛剤と偽って、飲んでいたらとしたら。
 ああ、意味のない、例えばの話だ。
 仕事の続きをしなければと机に目を向けると、原稿のなり損ないが山を作っていた。時刻は二時五分になろうとしている。
 左腕が、熱を帯びたように、痛み始めた。

 

 

 


nina_three_word.

プラシーボ効果