kurayami.

暗黒という闇の淵から

ティアレイン

 午後昼過ぎの暗雲の下で、私の小刻みな足音が小さくタンタンと、響いている。
 何処に向かってるかなんて目標はない。だけど、いつまでも走れる気がした。この町に嫌われている長い坂だって、このままずっと登れる。
 例え、デートのために整えた髪が乱れても。
 私は、逃げていた。
 触れたくない気持ち悪い何か。認識したくない腐りきったイチゴ? 振り下ろし続けるナイフを持った殺人鬼の手? 休日に幸福な夢から目が覚めて、もう一度眠りに落ちれば夢に戻れると信じる、子供の希望と不安。
 きっと、そんな恐怖……全てを詰め込んだ事実に、私は猫のように驚いて逃げてしまっている。
 だけど多分、そんな事実は私を追って来ない。追って来て、くれない。
 登り切った坂から町を見下ろす。足を止めた途端、息が上がっていることに気付いて、汗が滝みたいに頬を流れた。
 町はいつも以上に……まるでなにかに備えるように、静かで。
 火照った鼻の頭に、冷たい何かが落ちた。
 そして、ぽつ、ぽつと、アスファルトに水玉模様が出来ていく。
 劇的な雨。
 私は誘われるかのように、閉店してる雑貨屋の、黄色い屋根の中に入った。
 身体の熱気も、恐怖からの逃避感情も、雨に冷めていく。
 私は、取り返しのつかないことをした。
 汗と雨。身体から透明な雫がひたひたと落ちて、私の水玉模様を屋根の中に作っている。身体から少し、洗濯のにおいがする。
 雨のカーテン越しに貴方が心配になる。貴方は今、どうしているのかな。この雨の中、止まった時間の中で、まだ公園のベンチに座っているのかな。
 それは、それは私の……希望でしか、ないけれど。
 思い返せば貴方がベンチに座るまで、口を開く前から怖かった。なにか良くないことを告白しようとする、鼓動が高鳴る雰囲気。
 そしたら貴方、好きな子が出来たから別れよう、だなんて。
 私が大人になって、ちゃんと話し合えば良かった。我慢して悪い女になって、二股すればいいじゃないって惑わせば良かった。相手の子の名前を聞いて、それで……なんとでも出来たかもしれない。
 なのに私、頭が真っ白になって「わかった」としか言えなくて、とても怖くなって、それで……
 雨はの勢いは増していく。きっと、数分後には綺麗に晴れ上がる。
 その数分の間は私、後悔し続けないといけない。雨を理由に、言い訳に、貴方を探しには行けない。行かない。
 だって、この雨を言い訳にして憎らしいって思わないと、私はこの先、永遠に後悔し続けるから。
 もう貴方の元に、二度と帰れなくなってしまった。

 ああ、だけど、手を伸ばして濡れる指先の冷たさはまるで、私から流れる小さな雫みたい。

 

 

 

 


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〈 遣らずの雨 〉

 

駄目人間

 終電過ぎの駅には、くたびれた人間しか存在しない。
 それは駅前に設置された、小汚い喫煙所にも。取り残された奴、残ることを選んだ奴、これから家に帰る奴。疎らにしか立っていないこの喫煙所の人間は皆、平日の一日に殺されかけている。
 例外なく、残業上がりで家に帰るだけ俺だって、そうだ。
 とてもじゃないが、今は愛想笑いをする気も起きない。背筋を伸ばして歩くことも、空を見上げることも出来ないだろう。鞄に入れたイヤホンを取り出す気だって全く起きない。身体はくたくたに疲れて、骨の隅々が悲鳴を上げていた。
 煙草が最後の味と共に燃え尽きる。吸い殻を捨て、重たい足を自身の家へと向けた。
 家に帰れば、描きかけの油絵が待っている。仕事に向ける熱意や感情が趣味に向けるものと違っていたとしても、疲労は同じ身体へと積もっていく。そもそも趣味のために仕事をしているのだから、疲労に疲労を重ねているのも残酷だ。
 生きる上で、動き生活する上で、身体を駄目にしていくには限界がある。
 まず意思がリミッターとして働く。自意識がこれ以上疲れさせまいと何かと理由付けをして、根刮ぎやる気を奪っていく。皮肉なことに嫌われモノの怠惰が人を救うのだから、偽善者は息も自由に吸えない。意思を越えれば、最後に身体がリミッターとなり、自然と痛みで動けなくなっていく。
 それでも動こうというものならば、リミッターは壊れ、迎えるのは死だ。
 俺は、それでも構わないと思っている。
 気付けば家の玄関が目の前にあった。しかし、やっぱりそのドアは駅前の喫煙所のように小汚い。ドアの掃除なんて、優先順位で言えば親の顔を見に行く次ぐらいなのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
 安っぽい鍵の音が響いて、ドアが開く。ただいまと言える相手なんて、このアトリエの絵たちぐらいだろう。
 鞄とジャケットを玄関に捨て、錆び付いた台所へと直行する。シャツの胸ポケットに入ったくしゃくしゃのソフトパッケージの煙草を取り出すと、くだらないことに残り一本だった。
 持たれかかって最後の一本を吹かし始める。徒歩八分のコンビニですら憂鬱になる、煙草が無ければ作業は捗らない。
 午後一時過ぎ。コンビニに行く事を含め、四時まで作業が出来るだろう。二時間寝て出勤。妥当だ。
 どんなに疲れても、あと三ヶ月ぐらい生きれたら良い。
 その三ヶ月を悔いなく過ごせたら死んでも構わない。
 そう考えれるのが俺のメリットで、可笑しいことに人間的デメリットだ。
 まるで駄目人間だが、それで数少ないであろう夜を惜しみなく過ごせるのであれば、それでいい。


 
 

 


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〈 メリット 〉
〈 リミッター 〉

 

泉の底

 夜の曇り空に赤い光が反射して、夏の祭囃子が町に響いている。
 そんな夏祭りから逃げるように、二人の少女が町の外れにある神社へと訪れた。
 神社は、まるで賑やかな町から切り取られたかのように、冷たく静かな空間を保っている。
「思ったより、人いないね」
 ポニーテールの髪型をした少女……スミカが辺りを見渡してそう言った。
「ね。でも、ここちょっと雰囲気怖いもんね……」
 前髪を切りそろえた少女……サキが、スミカの裾を掴んだまま答える。
「あの言い伝えが、あるからかも」
 神社の奥をスミカが見て、呟いた。
「言い伝え?」
 スミカが「こっち」と言って、サキの手を引っ張り神社の脇へと入っていく。
 神社と森の境界を歩き進んだ奥。サキが連れて来られたのは、石で囲まれた池のような場所だった。
「こんな所に、池があったの。知らなかった」
「ううん、池じゃないよ。泉」
 サキの言葉をスミカが訂正して、泉の前に腰を下ろす。つられてサキも横に、ぴったりとくっつくように座った。
「えっとね、お爺ちゃんから聞いたんだけど」
「んん、待ってスミちゃん。それ、こわい話?」
「んー大丈夫だよ。私がいるから」
「えっと、なら、大丈夫かも」
 根拠のないスミカの発言に、サキが首を傾げて納得したフリをする。
「そう、それでお爺ちゃんから聞いたんだけれど。ここの神社って由緒正しい所なんだって」
「由緒って、なあに」
 サキが泉をぼうっと見てスミカに聞いた。
「ずっと昔からあるって、ことだよ」
「昔って、どれぐらい?」
「それがね、この町が出来る前から、千年以上も昔って言うんだ」
「すごく昔だね」
「うん、すごく昔」
 二人が見つめる泉の中で、魚が動いて波紋が広がる。
 耳を澄ませばまだ聴こえるはずの祭囃子は、神社の雰囲気に呑まれて、二人には届いていない。
「それで、その頃死んだ人は全員、幽霊になってもあの世に行かないで、たくさんうろうろしてたんだって」
「たくさん。そんなにたくさんいたら、怖くないかも」
「うん。だけど、死んでいなくなった方がいい人、ってのもいたらしくて」
「どうして?」
「えっと、悪い人……泥棒さんとか好き勝手してたら困るでしょ? あと、嫌いな人がいつまでもいたら、嫌じゃない?」
「困る、嫌」
 サキが納得した表情を見せた。
「だから、そのまま幽霊を野放しにすることを回避するために、生きてた人は神様にお祈りして、幽霊たちをあの世から出れないようにした」
「どうやって?」
「神様は、幽霊をあの世に閉じ込めるために、泉を作ってたくさんの雨を流した。軽かった幽霊たちは水のの重さに流されて、潰されて、今も泉の下に……」
 スミカの言葉に、サキが泉を凝視した。
 暗い暗い泉の底で、水に潰されて動けないまま、もがいている。サキは泉と死への恐怖を、同時に連想して泣きそうなった。
「こわい」
「うん、こわいね」
 慰めるように、サキの頭をスミカが優しく触る。
 死と泉。それに恐怖しているのは、スミカも同じだったから。

 

 

 

 


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〈 泉下 〉
〈 回避 〉
〈 由緒 〉

 

雛鳥の初恋と終わりの後押し

 私が可愛く鳴けば、仕方がないと言わんばかりの顔をして餌をくれる、甘い甘い貴方のことがとても、好きでした。

 私が〈育て屋〉に預けられたのがもう、七年前のことになるのね。
 窮屈で、とても女臭くて辛気臭い場所だったわ。過半数の女の子たちが〈女〉として売られる未来を受け入れずに、ずっと愚図ってた。
 悪態が絶えない子。隅っこで膝を抱えて泣いてる子。虚ろな目で天井を見上げている子。みんな不幸そう。
 私は、私はそうでもなかった。
 少しだけ底意地が悪い女の子だったから、他人の不幸そうな姿を見るのが楽しかった。少しだけ頭が悪い女の子だったから。先の未来なんて漠然として不安にはならなかった。
 それに、少しだけマセた女の子だったから、恋をしてた。
 無精髭が生えた、管理人のお兄さん。この屋根の下の、唯一の男の人。
 みんな、お兄さんを悪魔のように怖がっていた。まあ、不幸の原因だものね。仕方がないのかもしれない。だけどお兄さんだって仕事でしてるのであって、売り飛ばすことが趣味ってわけじゃないの。
 何より、私たちのような雛鳥を生かしてくれていた親鳥だったのに、みんな恩知らずも良いとこよ。
 餌の時間になるたびに、私は尻尾を振るようにお兄さんに話しかけた。
 お兄さんは仕事柄に合わず、無愛想だけど、とても優しい人だった。それに生真面目。私たちの管理を怠ることなんて一度もなかったもの。そんなとこも好きだった。
 何より私が好きだったのは、先の不幸を嘆く女の子たちの目とは違う、全てに絶望したような、深くて暗い淀んだ目。話してるとき、目線はこっちを向いていても多分、私のことは見ていなかった。
 何を見ていたのかしら。もう知りようがないけど、きっと何も見てなかったと思う。
 その目には、何も映っていなかったから。
 日々、お兄さんに恋をして、拗らせて、私、乙女だった。
 だからこそ、嫉妬心が生まれる。焦りが生まれてしまう。
 他に餌を貰う女の子たちにも。次々と追加される新しい女の子たちにも。私は嫉妬して、焦っていた。
 淀んだ目に光を灯す女の子が現れることを、酷く恐れていたの。
 絶対に私だけのモノにしたくて、お兄さんに親身になった。辛くない? たまには甘えることも必要よ。私がなんでも聞いてあげる。
 なにか悩んでることはない?
 そんな、母のように甘やかし続けていた中で、お兄さんの口から淀んだ願望吐き出された。
 希死念慮
 私はとても哀しくなった。だって、お兄さんが幸せになるのも、私がお兄さんを独り占めにするのも、死を後押しするしかないんだもの。
 だから、私は餌の恩返しのつもりで、お兄さんを甘やかしてあげたわ。
「そうね、貴方は、死ぬべきなのかもしれない。ううん、死ぬしかないの。だって貴方が生きていても、何も、永遠に咲くことはないから。大丈夫、私が見ててあげるから、ね。大丈夫よ。安心して」
 私の言葉を聞いた夕方、お兄さんは私たちの牢の鍵を開けて、首を吊って自殺した。

 そのときになって初めて、好きな人を抱きしめれたの。
 

 

 

 

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〈 雛鳥 〉
〈 追加 〉
〈 後押し 〉

 

終わってしまえばいいと呪うまで

 大人の取り決めた枠から、生活を供給されている子供は逃れられない。
 それが例え、子供たちの中に確固たる意思があったとしても。

「……なんで」
 夏の夕暮れ。公園のブランコに座った男の子が、絞り出すような声を出した。
 女の子は黙ってブランコを二往復漕いで、ポツリと呟く。
「お父さんとお母さんが、そう言うから」
「それは、聞いた」
 男の子が苛立って、足元の砂を踏み躙る。
「なんで。だって、決断するには早いだろ」
「うん、私もそう思うよ。けど、私が心配なんだって」
 取り残された昭和の時間。背の高い金網で囲まれた街。
 世界に蔓延する奇病は、人々を狂わせ、生きる屍へと変貌させていた。
「まだ、まだ三人しか感染していないし、被害だって少ないじゃないか。役所も警備を増やすって。なにより、外の方が……」
 だって、まだ。男の子は駄々を捏ねるように繰り返す。
「きっと……襲われたのが私じゃなければ、この街を離れる必要もなかったんだろうね」
 胸を抑えて言った女の子の言葉に、男の子は黙ってしまった。
 女の子のブランコはいつの間にか止まっている。
 蝉の鳴き声も。
 夜の静けさが街を包み、帰ることを急かしていた。
「やだなあ。やだよ、貴方と離れるの」
 泣くのを我慢するように女の子が小さな声を出す。
 男の子は黙ってどうするべきかを考えた。女の子を泣かせないために、離れないために。しかし、男の子にはどうすることも出来ない。
 子供、だから。
「……感染する、危ない病気とか、大人の正しい取り決めも、僕が子供で何も出来ないのも、何もかも、全部全部」
 男の子が、暗くなった地面を見ながら、言い続ける。
「くだらない」
 消え入るように、無力らしく。男の子は呟いた。
「そうだね。本当に」
 本当に、くだらない。女の子は声には出さないまま、空を見上げる。
「でも、だけど、貴方は何も悪くない」
「何も出来ないよ、僕は」
 女の子が立ち上がり、ブランコに座っていた男の子の頭を胸に抱き寄せた。
「いいの。いいんだよ。もう、諦めようよ」
「でも、だけど」
「いい、の」
 嗚咽混じりの女の子の声を聞き、男の子が泣き始める。
「や、やだ」
「私だって、嫌だよ」
 暗闇と門限と大人の取り決めが、二人を追い詰めていた。
「離れるぐらい……なら、いっそ世界なんか、終わってほしい」
 涙を流し、女の子が世界の破滅を願った。
 女の子の願いを引き金に、男の子の思考が淀む。
 大切な人が襲われ、離れ、泣いている。理不尽な不幸をもたらす世界を、男の子は心の底から恨み、呪った。

 この肯定するしかない、くだらない世界を。
 

 

 

 

 
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〈くだらない〉と呟く男の子に〈そうだね〉と返す女の子。

 

エスシーエス

 砂浜が僕の足を取って、踏み出す足が重かった。
 振り返ると彼女が少し遠くてしゃがんでる。白いワンピース風の水着が、黒と藍の景色の中で主役になっていた。
 この海岸には、僕らしかいない。
 雨の日に海に行こうだなんて我儘を言う彼女がいて、夕方海に着く頃に雨が綺麗に晴れ上がる。そんな〈普通じゃない〉が揃って、僕らだけの海岸に辿り着く。
 風が鈍い音を立てて、砂浜を叩いた。もうそろそろ日が沈む。
 もう一度、僕は振り返った。相変わらず、彼女は夢中になって貝殻を探している。
「ねえ、思い出にさ、二人で貝を作ろうよ」
 二枚貝の片割れを別々に探して、僕らだけの二枚貝を思い出に作りたいと彼女が言った。
 正直面倒くさいし、それが思い出になるのかと少し疑問に思う。どうせ時間と共に捨ててしまうだろうに。
 だけど、あの笑窪を浮かべて無邪気に歯を見せながら提案する彼女を、拒否する彼氏がこの世にいるのか。
 いたらそれはきっと、あの子の彼氏じゃない。あの子の我儘を拒否するだなんてことは僕が許さない。なにより、あの子の彼氏は僕だ。
 つまり、何かと言うと、僕は彼女に心の底から惚れ込んでいた。
 また心配になって振り返る。遠く、手のひらに乗りそうなほど小さくなった彼女が、僕のことを見ていた。目があったことに気付いた彼女が大きく手を振る、多分笑窪のある顔で。僕と離れている間は、危ないから海に入ってはいけないって言ってあるけど……心配なさそうだ。
 沈みかかった陽が海面に揺れて少し眩しい。ここら辺で良いのかな。見下ろした感じ、貝は全然見当たらないように見える。しかし、しゃがみこんで目を凝らせば、幾らか砂の中に埋もれている貝が見えた。まるで夜空の星だ。
 引き抜こうと手を伸ばすが、なかなか引き抜けないでいた。昨晩彼女に切られた深爪がここに来て不利になる。引き抜けたかと思いきや割れた貝だったりして、首をうな垂れて落ち込む。
 困り果てた僕は、手を後ろについて座り込んだ。夕空に深爪した片手をかざしてみる。
 二枚貝を思い出にしようとするのはわからないけれど、こうして彼女が深く切った爪は、どこか愛おしい。
 彼女に言ったら理解してくれるかな。してくれなくてもいい。「なにそれ」って、あの笑顔を見せてくれるなら。
 後ろに置いた手が、硬い何かに触れた。拾い上げてみれば綺麗な形をした、黒っぽい二枚貝の片割れ。
 彼女が喜んでくれる。そう思った僕は思わず、すぐに後ろを振り返った。
 夕闇が伸びて、彼女の姿が見当たらない。
 僕は彼女がいた場所に小走りで向かった。遠くて見えないだけ、近付けばそこにいる。帰ったら塩焼きそばを一緒に食べよう。帰り道は何処かに寄ろうか。夕暮れの砂浜が綺麗だね。やっぱり、好きだ。
 そんなことを、虚しく思って。


 彼女はそれ以来、雨上がりの海以来、行方不明のままだ。
 片割れの貝を、残して。

 

 

 

 

 


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二枚貝
〈 深爪 〉
〈 笑窪 〉
 

迷子の先は

 参ったな。これは、どうしたことか。
 さっきまで、さっきまで私は……ああ、そうだ。私は職員室で、明日の実験を含めた授業の準備を終えたばかりだった。
 午後八時のことだ。ついでに、桐山に「その、浅川さん……すみません」なんて、反省した犬みたいな調子で頼まれたから、あいつのクラスの準備もしてやった。後輩の頼みだからな、断れん。
 そう、さっきまで、一歩前まで、私は勤めている学校にいた。
 それがどうだ、今じゃどうした。
 鳥肌が立つほどの湿った空気。遥か遠くから響く風のうねり声。心の不安を煽るような不気味な松明の灯り。長く続く、苔の生えた赤煉瓦の通路。
 なんだここは。私は、何処に来てしまったのだ。
 私は恐る恐る、足元にある苔を踏み躙った。少しぬめり気と弾力のある苔が、靴底をを通して伝わる。
 どうやら、この悪夢のような状況は現実らしい。
 私は一歩一歩、足を前に踏み出して行く。不規則に並んだ松明の灯りが、前方の暗闇を照らしていた。
 帰りたい、恐ろしい。そう言った感情を踏まえて、ここが何処だか知りたかった。この場所がどこかわかれば、恐怖を拭え、帰路が明確になるかもしれないからだ。
 しかし、窓も空もない。わかるのは前方と後方に道が続いてるだけ。
 これはまさか、迷った罰なのか。
 足を踏み出して行く中で、通路の形に変化が起きた。道が二つに分かれている。勿論、どちらがどこに繋がっているかだなんて、親切なことは書かれていない。
 私は少し迷って、左の道を選んだ。左利きだからだ。
 そうだ、妻はいつも、私を考慮して右側に寄り添ってくれていた。
 また分かれ道。迷い、迷って私は、右を選ぶ。
 まるで迷宮みたいに道は何度も分かれた。行き先がわからない分かれ道にぶつかるたびに、私は酷く迷った。
 あの時のように。
 夫として、何となくわかっていた。その日のうちに妻が病気で死ぬと、長年連れ添った妻の衰弱ぶりに、頭のどこかで確実に理解していた。しかし、教師として、大人として。私はその日、教鞭をいつものよう執っていた。
 朝礼から昼まで、ずっと迷っていた。今帰っても間に合うんじゃないかと、やっぱり来るべきではなかったのではないかと。
 こんな男の末路は決まっていて、妻の死に目に、結局間に合わなかった。
 ふと、足元を見ると、最初に踏み躙った苔がそこにあった。どうやら戻ってきてしまったらしい。
 私は呆れて笑ってしまう。迷ってこれじゃあ、救われんな。
 誰かが〈先生〉は「先に生きる人と書いて、先生」と書くと言っていた。ああ、先に生きる者が迷っていては、教師は務まらないだろう。
 ふと松明を見ると、火が風に瞬いて消えていった。どうやら迷っている暇は無いらしい。
 私は出口に辿り着くため、この罰の迷宮の中をひたすら突き進むことにした。
 迷うことを、棄てて。

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈 先生 〉
〈 迷宮 〉
〈 瞬く 〉