「あのね、りんごを見たの」
縁側から声がした。麦わら帽子を被り、水色のワンピースを身に纏った少女が、つま先を伸ばし、にこにことしている。
「あらあ、ここら辺に林檎の成る木なんてあったかしら」
少女の祖母は、頬に手を当て考える。
「本当に見たんだってば! 空をぷかぷか飛んでたの!」
一生懸命訴えかける少女に、祖母は「そうなのね」とにこにこ答える。子供ながら、それがわかってないとわかった少女は、ぷいっと、庭を出た。
蝉が、遠くで鳴いている。
東京から、新幹線に乗って数時間。夏の長期連休を使い、父親と、父親の実家である静岡に、少女は遊びに来ていた。東京にはない広い青空、高い山々、一面の背の高いトウモロコシ畑。少女は、向こうなんかより、こっちのほうが楽しくて好き、だなんて思って、でもこっちに来たら、ツユちゃんと遊べなくなっちゃう、だなんて悩んで、数秒後に見た川を流れる綺麗な水流と、そこを泳ぐ魚群の光景で、そんな悩みを忘れてしまう。
川の水の冷たさに、きゃっきゃと喜ぶ少女が、一瞬揺らいだ風に、頭をあげると、川の向こう岸にそれを見つけた。
「まっかな、りんご」
それは宙を漂うに動き、まるで、子供の興味を引くように、揺れている。
少女は土手を登り、真っ赤なそれを追いかけた。
ひぐらしが鳴き始めた夕方。娘を探しに、父親が家を出る。ここ最近は、神社前にある公園からの眺めがお気に入りらしく、少女は夕方、いつもそこにいる。俺も昔はそこで遊んだ、と、自身の過去と現在の未来が重なっていることに、父親は少し嬉しくなる。
夕に染まる土手、影の伸びる祠。父親の少年時代は確かに、ここにあった。そういえば日が沈む前に帰らないと、拗ねた太陽が拐いに来るだなんて、可愛い迷信を信じ込まされていたな、なんて、父親は考えて、神社の階段を登る。
少女は、公園にいなかった。陽が、沈んでいく。
別の公園、川沿いを探すも見つからず、トウモロコシ畑の中、父親は家族に連絡を取ろうと、携帯を手に取ったとき、それは、視界の端で揺れた。
畑の狭間の道、赤い球体が、浮いている。
それは、ゆっくり、ゆっくりと、父親に近づく。
太陽と呼ぶには小さすぎて、林檎と呼ぶには、大きすぎる。
獣が狩れると確信したように、それは一気に、距離を縮めてきた。
父親は、トウモロコシ畑に逃げ込む。赤い球体は、背の高いトウモロコシをなぎ倒すように、追いかけてくる。
細い細いその隙間、先の見えない出口を、父親は走り続ける。
赤い球体のそれは、林檎でも太陽でもなかった。
父親が見たものは、人間の特徴を持つ、手、足の集合。
血に濡れた、球体。
真夏の暑さに相応しくないような、冷気を吐くそれは、畏れを放っていると、父親は肌で感じ、危機感から、逃げる。
トウモロコシ畑を抜けた先、自身の実家にたどり着いた。父親が振り返るとその赤い球体は、まるで元々いなかったかのように、消えていた。
代わりに残ったのは、血の匂いと、
ふわりと落ちた、麦わら帽子だけ。
妖怪三題噺「林檎 ボール 帽子」
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