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kurayami.

暗黒という闇の淵から

望まれない溺死

 倉崎香奈恵にとって、死にたがりの高山蝶乃は親友だ。

 二人は小学校のときからの仲で、それは高校に入っても、三年生になっても変わらない。例え蝶乃が、演劇部に入っても。香奈恵はいつものように、自転車置き場で、蝶乃を待っていた。
 夏の夕暮れの涼しさに、蝉の鳴き声が、どんどん消えていく。
「ごめん、お待たせ」
 蝶乃が幽霊のように、香奈恵の後ろに現れた。
「わっ、遅いよ」
「ごめんね」
 少し驚いた香奈恵は、それを隠すように勢いをつけて文句を言った。
 二人は少し歩き、角を曲がり高校が見えなくなった辺りで、自転車の荷台に、蝶乃が乗った。
 二人を乗せた車輪がゆっくりと、動き出す。
「今日、遅かったじゃん」
 不機嫌そうに、香奈恵が聞いた。
「えっとね……今日、リハーサルだったんだけど、一人休んじゃって、それで、えっと……偶然いた松田くんに、少し役を教えてあげて、代役してもらって……」
「ふうん」
 背中であたふたする蝶乃に、香奈恵は、そんなの立たせて置くだけじゃだめなの、とでも言いたげな顔をしていて、蝶乃も背中からそれを悟った。
「ごめんね、ごめんね。もう少しで終わるから」
「謝りすぎ。いいよ別に」
 私が勝手に待ってるだけだし、と香奈恵が付け足す。
「香奈恵も演劇部入ればいいのになあ」
「私がそんな、器用なことできると思ってるの?」
「不器用だもんね」
 市街地を抜け、川沿いに入った。古いコンクリートの道を、車輪はガタガタ音を立てながら回る。
「ん? ちょっと待って」
 いつもよりペダルが重いことに気づき、一度自転車を止める。
「あーパンクしちゃってる」
「いつも頑張ってるもんね、この子」
 香奈恵がため息をつく横で、蝶乃が自転車を撫でた。
「たまには、歩くのもいいと思うけどな」
 蝶乃が励ますように言った、空が紫色になった頃。

「どうですか。念願の人魚にはなれそうですか」
 川沿いを、香奈恵が自転車を押しながら聞いた。
 都立紫苑高等学校演劇部は、毎年、卒業生による人魚を主役とした劇を公演している。誰がやり出したのかはわからないが、紫苑の人魚劇は、古くからの決まりだった。
 高山蝶乃は、人魚役をやりたくて演劇部に入った。
 人魚になること、それが、彼女の、小さい頃からの夢だったからだ。
 倉崎香奈恵は、その夢を笑わない。
「うーん、どうかな。なれるかな……私なんてまだまだだから……」
 香奈恵から見て、蝶乃のその顔は謙遜などではなく、深刻そうなものだった。
 空が深い黒色になる。
 死にたがりの蝶乃を、香奈恵は心配する。
 水辺が好きな彼女を、心配する。


 その夜、香奈恵は走っていた。
『夜の劇場で待ってる』
 蝶乃がこういう、聞き直さないといけないようなメールを送るときは、死を望んでいるときだと、香奈恵は知っている。
 浴槽で自殺未遂をしたときも、川に飛び込んで死にかけたときも、いつも決まって、蝶乃は香奈恵にメールを送っていた。
 〈夜の劇場〉というのが、香奈恵にはわかっていない。わかっていないから、香奈恵は考えられるとこに走るしかない。
 香奈恵は、わかっていたのかもしれない。劇場という言葉から、自然と最初に、そこに辿り着いた。
「早かったね」
 裸足に白いワンピース。蝶乃は、紫苑高等学校の、深夜のプールサイドに立っていた。
「自転車が動けば、もっと早かったんだけどなあ」
 息を切らした香奈恵がそう言って、蝶乃へ近づこうとする。
 蝶乃はそれを見て、演技のように、微笑む。
 ゆらゆらと回りながら、蝶乃はプールへ、水飛沫を上げて飛び込み、香奈恵がそれを追いかけた。
 長方形の中、二つ波紋。
 蝶乃を捕まえた香奈恵が、不安混じりに、泣きそうになった。
「私はね……人魚になりたいの」
 香奈恵の腕の中で、蝶乃は焦点の合ってない目で答える。
「悲劇の中の、美しい鱗を持った人魚」
 まるで劇のように、蝶乃が中指を伸ばし、片腕を静かに上げる。
「もうこんなことしないでよ……」
 他者の死という恐怖が、香奈恵を泣かせた。
 その涙を、蝶乃はこうなることがわかっていたかのように見た。
「……それなら、お願い、一つしてもいい? そうしたらもう、こんなことしないから」
「なに?」
「香奈恵の手で、香奈恵の手加減でいいから」
 私を沈めてほしい。蝶乃は、そう願った。
 追い詰められ、選択を限られた少女と、夢見る死にたがり。
 生かしたがりの香奈恵の手が、蝶乃にかかる。

 

妖怪三題噺「鱗 タイヤ プール」

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