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kurayami.

暗黒という闇の淵から

洗い落とす

 アラームもかけず、本当に、なにもやることがない、休日のことだった。
 俺は、午前中に目が覚めてしまったんだ。二度寝するのにも足りない眠気を引きずって、俺は布団を出た。曇った鏡に、浅く無精髭を生やした、俺が立っている。外は、ただただ眩しそうに、陽を差している。
 インスタント食品が底をついた。座椅子に座り込んで、食料が舞い込んでくるのを待つかのように、黙る。もう、来るはずがない。腹が、減った。そういえば、ラーメンの無料券が財布に入ってたはずだ。あのラーメン屋、確か駅前にあったよな。
 財布を覗けば、レシートとレシートの間、確かにそこに、無料券が入っていた。俺は重い腰を上げ、この長年俺に付き合ってきた、よれよれのコートに袖を通して、家を出て、また玄関を開けて戻った。煙草を、忘れた。
 まだ秋が始まったばかりで、このコートは少し暑かったかもしれない。陽は、休むことなく、この住宅街を照らし続ける。じいさんや学生風の男女、子供が歩いている。ああ、そうか休日だからか。いつも、朝や夜にしか通らないから、違和感があるのか。この街も、生きてんだなあ。
 駅前のラーメン屋。無料券の期限はとっくのとうに過ぎていて、結局自腹で払った。なぜか、しまったと、普通に生活してしまったと、喫煙所の中で煙草を吸っていて考える。きっと、普段の生活が浮き彫りになってしまうから、しまった、なのかもしれない。一本目の煙草を吸い終わり、二本目の煙草を取ろうとしたとき、くしゃくしゃになった、ラッキーストライクの中身は空なのを思い出した。それが更に、このまま家に帰るのは癪だと俺を押す。
 喫煙所を出て、駅前を通る。学生の頃、ここでアイツと遊んだなあ、なんて考えてるうちに、そのカフェに足が向いた。そうだ、ここで続かない会話をしたんだ。なにも変わらねえなあ、なんて思いながら、コーヒーを頼む。
 カフェのコーヒーを片手に街を歩くなんて、勝手に、若者の特権だと思っていた。歩いていくうちに、段々蘇っていく、この街での、思い出。アイツの、面影。それは、俺の乾いた普段の生活を、水滴が落ちるようなリズムで潤していく。たくさんの水槽が並んだ店の前で、足が止まった。前までこんな店がなかったとことと、蘇っていく思い出が、その水槽の青さに釣られ、この街にないことを思い出させた。
 アイツと、新婚旅行に行ったときのことだ。俺は別に、どこでも良かったんだが、アイツが白い海がいいって言ってな。それで、白い海沿いってのは、珊瑚礁がセットなんだよ。というより、珊瑚礁があるから、白い砂浜というのができるらしい、知らんけどな。それで、行けばアイツは大喜び。まあ、どこでもいいとは言ったけど、アイツが喜んでくれたのが、なにより俺は嬉しかったよ。
 だから、なにが言いたいかって、俺が今日この街を見て思ったのはさ……
「おい、あんさん大丈夫かよ」
「俺はおっさんに、なっちまったんだよ」
 いつの間にかというより、そうか、そういえば俺は居酒屋に入ったんだ。で、誰だこのおっさん、まあいいや。
「アイツが帰ってこないんだよお」
「おうおう、つれえなあ」
珊瑚礁だって生きてるってのに、俺は、俺は……」
「サンゴがなんだよ、あんさんのほうが偉いってえ」
「俺は、俺はもうだめだ、染まっちまってんだ」
「なににだよう」
 俺はもう、黒く黒くどんよりと、日常に染まっていて忘れていた。大事な思い出を染物にして、忘れて、でも。
「もう一生帰ってこねえんだよお」
「帰ってくるってー!」
 俺は知らないおっさんに励まされた。ああ、どんどんおっさんになっていく。
 居酒屋の外、紅い光が、俺たちの街を染めていた。

 

 

妖怪三題噺「珊瑚礁 染物 おっさん」

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