kurayami.

暗黒という闇の淵から

初恋禁忌

「キキちゃん? へえ、漢字でどう書くのさ」
 金曜日の夜、橙色の明かりを灯す、バーの中。賑わいを見せている中、キキと呼ばれた少女が、隣に座った酔っ払いの男に絡まれていた。
「絆のキと、綺麗のキで、絆綺って書くんです」
「可愛いねえ、ええ? お嬢ちゃんいくつよ」
 酔っ払いの勢いに、絆綺は困ったように苦笑いをする。
 見兼ねたバーテンダーが、カウンターの向こうから声をかけた。
「おいおい、佐藤さん。その子は保護者同伴だからな」
「えっ」
「当たり前だろ」
 バーテンダーが顎をしゃくった先にいた女性が、佐藤に手を振る。
「江梨花さんのとこの娘さんなのか!」
「そうなんです」
 絆綺は、いつものように母親の江梨花行きつけのバー、〈スケル〉に連れて来られていた。普段一人じゃ行けないところだからこそ、絆綺にとっては面白い場所だったが、理由は他にあった。
「にしても絆に、綺麗の綺だなんて、変わってるねえ」
「まさに綺麗な名前だろ?」
 バーテンダーが、腕を組んで立っていた。
「えっと、雅綺さんが私の名付け親なんですよ」
「雅綺が? あ、あー、なるほど。お前もうそんなに長いのか」
 バーテンダー……雅綺は、ここに勤めて十八年が経っていた。
 雅綺が働く前から常連だった江梨花が、子の名前を悩んでいたとき、雅綺が提案した〈絆綺〉が使われたのだ。
 絆綺自身、変わってると言われても、その名前を気に入っていた。それは他ならない、雅綺が付けた名前だからだ。
 幼い頃から通っていたバー。そこに昔からいる雅綺に、絆綺は恋心に近いものを抱いていた。それは十四という少女が、大人に抱く尊敬の念が歪に変わったものだと、本人はわかっている。しかし、絆綺にとって、雅綺は一番だった。
 恋知らずの少女がする初恋は、まるで幻を追いかけるかのよう。
 しかし、追いつくと、思い込んで。

 日付が変わる直前の時間。〈スケル〉は店仕舞いを始めていた。店の中には、酔い潰れ寝ている江梨花と、父に電話をする絆綺、ジョッキ閉めをする雅綺の三人。
「お父さん、三十分後に迎えに来るそうです」
「いやー悪いね。俺が車出せたらいいんだけど」
「雅綺さんお酒飲んでるじゃないですか」
「そうなんだよね」
 カウンター内の片付けをした雅綺が、客席に座りレジ閉めを始める。
 なんとなく気まずくなった絆綺が、今日の命名の話を振る。
「そういえば今日、久しぶりに私の名前の話出ましたよね」
「そうだね。名付け親がカウンターの中にいて、こんなに若いだなんて知ると大抵の人はああやって驚くよねえ」
「でも雅綺さん、今年で三十五になりますよね?」
「あーそうだねえ、十四の可愛い可愛い絆綺ちゃんに比べたらおじさんよねえ」
 可愛いという言葉だけを大きく受け取った絆綺が、大きく照れる。
「そんなこと、ないですよ……」
「そんなことあるよ」
 そう返せば大きく照れるとわかって、雅綺が返した。
「あっあの、そういえば、そういえばなんですけど、私と雅綺さんって、同じ綺が入ってるじゃないですか……? な、なんか意味とかあったりするんですか」
 ずっと前から気にしていたこと。綺麗なことに縁があるようにと、そういう意味で込められた名前だとは聞いていたが、絆綺にとっては、同じ漢字を使うことに深い意味が込められているんじゃないかと、ずっと気にしていた。
「あぁ。あー」
 それかあと、煙草に火を付ける、雅綺。
「俺さ、十七のときに家出して、そのときにここの……前のマスターに拾ってもらったのね」
 雅綺は、絆綺の方を向かず。カウンターの向こう側を見ながら話す。
「だから、その頃からここで働いてるんだけど、俺、常連だった江梨花さんにその頃から応援されてたんだ。仕事が終われば酒飲みに連れて行ってもらったりして、まるで弟のように可愛がられた」
 一本目の煙草を、吸い切る前に灰皿に押し付ける雅綺。
「まあ、でも、俺にとっては一人の女だったんだよね、江梨花さんは。憧れだとか、尊敬だとか、全てひっくるめて、この人しかいない、って存在だったんだ。例え七つ離れていても」
 過ぎた時間の話。それを理解したうえで、絆綺は話を聞き続けた。
「いつか、ちゃんと稼げるようになったらって告白しよう、そう思ってた矢先だよ。俺が二十のときに、あっという間に結婚しちゃったんだ、江梨花さん」
 雅綺が、また新しい煙草に火をつける。
「悔しかったんだ。実は今でも悔しいさ。けど、どうしようもない。どうしようもないをずっとずっと乗り越えられず、ただただじっとしてるとき、一年経って、江梨花さんに子供の名前を相談されたんだ」
 過ぎた時間は、過ぎる現在に。絆綺は、締め付けられるようだった。
「俺がな。絆綺って名付けたのは、俺が、江梨花さんに繋がってられるように、って意味なんだ。ああ、産まれてくる絆綺ちゃんへの憎しみを込めてな」
 無音のバーの中。雅綺に締め切られた絆綺は、言葉の意味を少しずつ理解していく。
 それは、永遠に消えない名付け親の呪い。
 少しずつ、少しずつ初恋に彩られていた心が、抜けていく。
 その初恋は、もはや透明で、ただただ呪いによって型どられた形だけが、残った。

 

nina_three_word.

〈名付け親〉

〈最期の段落に“透明”を使う〉