kurayami.

暗黒という闇の淵から

母体回帰

 男が目を覚ましたとき、電車の外は見たことのない景色に、暗闇が重なっていた。着いた駅で、男は思わず降りる。
 高緒駅。
 中央線に乗っていた男は、乗り過ごし、東京の果てまで来たと理解する。
 駅は、閑散としていて、朽ちている。男にとって初めての駅だった。
 時刻表を見ると、どうやらさっきまで乗っていた電車が、この駅の最終電車だったことを知る。男は小さく舌打ちをし、ポケットから取り出した携帯を見るが、充電が切れていて時間がわからない。
 仕方がなく男は外に出る。改札は無人となっていて誰もいない。駅は丘の上に作られているらしく、改札を出たらすぐ緩やかな坂道となった。
 丘から見下ろすと、底に街灯が疎らに立っているのが見える。町のシルエットが見えた。男は始発までの時間を潰す場所を探すため、丘を下った。
 町には飲食店が並んでいた。ただ、男が見る限り人の気配はなく、全ての店がシャッターで閉められている。街灯が、煽るように点滅した。
 男が町の中心部に辿り着くと、どこか、懐かしい匂いが足を止めた。
 それは、甘いカツ丼の匂いだった。
 匂いに釣られるがまま、男が歩いていると、明かりが灯った店を見つけた。店に扉や窓はなく、半屋台のような形になっている。中を覗くと、アットホームな配置で、テーブルと四つの椅子が置かれていた。
 ただ不思議なのは、店の中には店員も客も存在せず、盛られたカツ丼が、一人分、テーブルの上に置かれていた。
 男は店の中に入り、カツ丼を改めて見る。
 それは、母がよく作っていたカツ丼と、全く同じだった。
「早く食べないと、冷めちゃうわよ」
「わかってるよ」
 聞こえた母の声に、男は思わず反射的に返した。
 瞬間、男の背筋が凍った。今の声は誰だ、と。
「今日はね、アンタの好きなカツ丼にしたんだよ」
「カツ丼だと、楽でいいわあ」
 母の声は店の奥。厨房から聞こえる。
 少し、好奇心はあるが、何かの聞き違いだと男は考え、静かに、静かに、店を出ようとした。
「あら、食べないの?」
 男は厨房から出てきたソレを見て、店を出る足を、身体を、止めた。
 ソレは、成人女性並の身長だが、頭は非常に大きく、数本髪が生え、その顔は膨れ上がり、その膨れ上がった頭と同じぐらいの太い首、女性の身体をふた回りほど大きくした肉付きをしている。服は着ていない。
 そして、性器の位置から伸びる、赤く細長い触手が二本、腹の前で踊っている。
「高広、ちゃんと食べなきゃだめよ」
 ソレは近づきながら、頭の中心部にある小さな顔のパーツが母の表情をして、母の声で、そう言った。
 男は走って、店を出た。
「いってらっしゃい!」
「鍵はちゃんと閉めるのよ」
「ご飯は食べてきたの?」
 ソレは、母の声を発しながら、男を追いかける。
 男は恐怖と混乱をしながらも〈逃げる〉ことと〈名前を呼ばれた〉ことだけが、頭の中ではっきりとしていた。
 母の声、母の表情……母の、記憶。
 ーーなら、母は?
 母と、自然と連絡を取らなくなり、五年。男は、母が気になった。
 町角を曲がるとき、男は後ろを振り返る。
「ご飯出来たわよう」
 ソレは、淡々と、母の表情で追いかけてきている。
 男は、電話ボックスを探した。

 なんとかソレを巻いた男は、駅前に電話ボックスを見つけた。静かに丘から町を見下ろすと、ソレは何かを叫びながら、町を彷徨いている。
 今更になり足が震え、男は母の安否を求めた。
 電話ボックスに入り、受話器を取る。
 男は、一つ一つボタンを押し、懐かしいリズムを刻む。
 しかし、最後の数字が、男には思い出せない。五年という月日が、記憶を閉ざしている。手は焦り、汗が滲んでいる。
 一度切り、最初から打ち直す。男は数字ではなく、リズムで思い出そうとした、そうだ、最後の数字は、八。
 コール音が数回、響く。
「高広」
 男は、受話器を落とした。声がした方を、振り返る。
 ソレは、ソレらは、受話器を囲んでいた。
 男は叫び、地べたに座り込む。
 性器から伸びたその触手が、電話ボックスの隙間から伸び、男の腹を弄る。
「クラスで賞取ったの偉いねえ」
「換気扇は消してって言ったじゃない」
「高広、帰っておいでえ」
 囲まれる母の声、泣き出す男。伸びた触手は、男の臍に繋がる。

 瞬間、安堵。

 電話ボックスの中、男は、母に回帰した。

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈臍の緒〉〈電話ボックス〉〈始発〉