積み重なった医学書。何度も書き直された淡い研究書類。黄ばんだ白衣に染み付いたカフェインの香り。これらは全て、彼女と再び並んで歩くための蓄積。成功と幸福を目指す過程の、道端の石ころに過ぎない。
ボクと彼女は、不幸を知らない甘い砂糖菓子で出来たような、恋人関係だった。そのはずだった。それが突然の通り雨のように、彼女はころっと病にかかって、溶けて焼けた。
通り雨なんかじゃない。永遠に止まない、不治の病。
彼女は見るからに衰弱していった。病は彼女の手足から少しずつ力を奪い、四肢から内側へと蝕んでいく。まるで趣味の悪い悪魔の拷問だ。
病が心臓に届くまで。ベッドの上で彼女が苦しみ、生き絶えるまで。残り七年。
誰も治し方を知らないという。自身が医者の卵だということを忘れて、ありとあらゆる医者を訪ねた。だけど揃いも揃って、全員が手を上げた。これほどまでに医者を、医学を恨んだことはなかった。
「万能薬でもあればな」
ふと、ボクが去る直前に、一人の医者が言った。そんなものがあれば医者滅ぶだけだ。あるなら今すぐにでも寄越せ。そんなものは何処にもない。ふざけるな。……そんな、一瞬の思考の後。ボクは開き直ったように、思い付く。
無いなら、作ればいい。
それは覚悟だった。ボクは自身の研究室に高級なシルクのベッドをこしらえ、彼女を横にした。
「大丈夫、ボクが必ずキミを救ってみせるよ」
彼女の手を握って、ボクが言う。彼女は何か言いたそうに目を泳がせて、言葉に迷った末に、
「ごめんね」
と、困ったように、目を細めて笑った。
それは、二度と見たくない笑顔だった。二度とそんな顔はさせないと、ボクは誓った。
それからボクは研究に没頭した。医学書に目を通し、研究を重ね、彼女の神経が消えた手を握る夜が続いた。一秒一秒が惜しかった。
彼女を、そして囚われたボク自身を、救いたかった。
その一心で、失敗を繰り返し、ボクは。
研究を始めて六年、奇跡を完成させようとしている。
このフラスコの中で、十八分後。万能薬は完成される、長かった、苦しかった、不安だった。もうすぐでボクと彼女は解放されるんだ。
彼女の側の椅子に腰をかける。
「なあ、キミ、起きてるかな」
ボクは彼女の手を握り、語りかける。
彼女は、額に汗を滲ませ、荒い呼吸を繰り返していた。もう二年以上、ボクの声が聞こえていないらしい。
だが、
「アナタ、そこにいるの?」
こうして二年以上、聞いているかもわからないであろうボクに語りかけてくれる。
「ねえ、好きよ。愛しているの」
ボクだけを信じている。ボクだけが、頼りなんだろう。
なんて、か弱いんだろう。
「私、今でも、河原に揺れるカワミドリを思い出すわ」
ボクは。
ボクは、今。とても良くないことを考えている。
弱く、ボクだけを頼る彼女をこのままにする方法は、このフラスコを割るだけだった。それだけで彼女はボクにとって、慈しみ深い、存在のままでいる。
あまりにも長すぎた。この六年間、ボクがいないと生きれない彼女に、恋をしすぎた。
万能薬を作るだなんて、理性を保つための薬でしか、なかったんだ。
nina_three_word.
〈 万能薬 〉
〈 慈しむ 〉