下の階から、家のインタホーンを鳴らす音がした。
私は反射的に少し湿った布団を頭に被る。嫌な予感がした。午後五時、学校終わりに人が立ち寄るような時間。
嫌だな、誰にも会いたくない。誰とも、話したくない。
布団にうつ伏せになって、耳を澄ました。母が廊下を走って玄関を空けた音。母の大袈裟な声。落ち着いた男の人の声。
……桐山先生だ。
私はすぐに部屋のドアを見た。鍵はかかっている。でも、きっと、先生は家の中に入ってくると思う。
浅川先生じゃないだけマシだったのかもしれない。でも、それにしたって、嫌だ。聞かれたくない、答えたくない。
外堀に埋まったものだけを見て、私を学校に連れ戻そうとするんだ。
学校へ行く大切さを長々と諭すに決まってる。
大切なこと、知ってるよ。そんなこと知ってるもん。
それをわかっていても、学校に行けないってことを、先生はわかってくれないと思う。
先生からしてみれば、私は不幸を拗らせた女子中学生でしかないから。
私、半年前の春まで、みんなと一緒にお弁当食べて、その週のドラマの話で盛り上がって、平凡で幸せな女子中学生だった。
平凡な女子中学生だからこそ、放課後に告白されたりして。
同じクラスの、黒部君。彼からの告白は嬉しかった。けど、少しだけ背伸びしたくて私、黒部君のことを意地悪にも、断ってしまったの。
黒部君、どうして、なんで、って言うばかりで、その時は少し良い気分だった。だけど、涙目になった黒部君が、言い寄って、私に無理やりキスをした。
それを偶然、同じクラスの子が目撃したらしい。勿論、その子は友達に「見ちゃった」って話した。きっと、私だってそうする。でも、その友達は誰かに話して、その誰かは誰かに話す。
噂はすぐに広まった。
人の目が、身体の中に入り込むようだった。何より嫌だったのは、付き合ってると誤解されるよりも、男子からは性的な目で見られて、女子からは変態扱いされることだった。
無視され、物を隠され、通りすがりにクスクスと何か黒く話され。
無理だった。
限界だった。
突然多くのものを失って、突き落とされて孤立した。
……先生は、何処まで知っているの?
女子がグループから外される深刻さを知ってるの。ご飯が喉を通らないほどしんどいことを知っているの。この半年の間に、身体が、お腹が重くなって戸惑っていることを知っているの。リストカットがやめられなくなって、もう半袖を着れないことを知っているの。
先生は、何も知らない。
女子中学生を何も知らない。
この迷宮の中、私には辿り着けっこない。
先生は、もう大人だから。
だから話したくない。知ったつもりで私を怒らないでほしい、それだけ。
階段を、ぎしぎしと登る音が聞こえて、私の部屋の前に人が立った。
こんこんと、重たい、ノック音。
「あー……犬佐さん、いるかな。いたら、返事してほしい」
低く、しかし人の目を気にするような、弱気な声。
私からしたら、懐かしい声だった。
一体、何から話すつもりなんだろう。何を知ったつもりで、諭すのだろう。
そう思った時、先生はドア越しに、いつもより弱気な声……消え入りそうだけど、確かに届く声で、私に尋ねた。
「なにがあったか、なにが辛いか、良ければ先生に教えてくれないか……? 先生、さっぱりわからんから……」
私は唖然とした。瞬く間に、迷宮を崩されてしまった気分だった。
〈先生〉という字は「先に生きる人と書くんだよ」だなんて、私に教えたのは誰だろう。
ドアの前に立つ不器用な人に、なにも解決しない中、私は思わず声を出して笑ってしまったのだ。
nina_three_word.
〈 先生 〉
〈 迷宮 〉
〈 瞬く 〉