俺がそのビルの最上階に足を向けた理由は、近くを通った。そう、それだけのことだ。
オーナー不明状態のビルのエレベーターは、だいぶ前に壊れてそのままらしい。そういえばあの頃から、不備がどうのってよく壊れていたな。三階にあった大型チェーン店の居酒屋は撤退したのか、仕事終わりによく立ち寄っていたんだが。他の二階や四階には怪しい事務所が突っ込まれているだけで、他の階は人の気配も無い。
それはもちろん、この七階の音楽スタジオにも。
若干黒ずんだ鉄の鍵を重たいドアへと差し込むと、硬い音が響いた。居場所を無くしたようにずっと、財布の小銭入れに入っていた鍵だ。やっと役目を果たせて良かったなと、ひとりでに思う。
全てを引き払ったスタジオは、壁が取り壊され、だだっ広い空間だけが広がっていた。天窓から差し込んだ日光が、防音の白い壁をぼんやりと浮き上がらせている。
ドアを閉め、奥の物置へと向かう。ああ何も無くてもこの空間は、間違い無く俺がオーナーをしていた空間だ。歩く歩数、天井の高さ。あの頃と変わらない。しかし、何故だろうか。思い出も、記憶も特に新しく湧き上がらない。何故か懐かしいと思えない。
そう思ってしまうのは、今の俺に問題があるからだろうか。
奥の物置には、やっぱり折りたたみ椅子が残されていた。どうせまた立ち寄るからと、思って隠しておいた物だ。
物置から取り出した折りたたみ椅子を抱え、今はもう機能していない換気扇の元へと行く。浅く腰をかけ、胸ポケットから取り出した黄色いアメスピに火を付けた。
あの頃はまだ、マイセンだったっけ。最初の内は結構景気良かったのにな。偶然この街が音楽を捨てちまった長い時期が訪れて、俺も何だが飽きてしまって、それで。
いつか何かしてやろうとこの階の所有権を握ったまま、個性も何も無い社会の歯車になって、九年。
何かをするのに、猶予はこれ以上あるというのか。
何も無い空間を見つめ続けている内に、吸えなくなったアメスピの灰が床に落ちた。長い時間留まってしまった気がする、もう、行かないと。
過去がその空間を振り返りもせず、俺は鉄のドアノブへと手をかけた。
ガキ、と重たい音。
ドアノブが、動かない。
もう一度、何度も、ドアノブを捻る。しかし鈍く硬い鉄の音が響くだけで、一向にドアが開く様子はない。不備の多いビルの悪い癖が出ている。
苦笑いと共に折りたたみ椅子の元へと戻った。しかし何故か、出れないことに対して自然と焦りは無い。
このままでも、良い気がしてきたからだ。
当ての無い先へと歩むぐらいなら、白い防音に隔離された中、自殺執行猶予の中で、もう少しこのままでいたい。
考え疲れるよりはマシだ。
nina_three_word.
〈 不備 〉
〈 防音 〉
〈 猶予 〉