kurayami.

暗黒という闇の淵から

水飛沫

 帰宅路。新宿で電車を乗り換えるとき、僕は無意識にネクタイを緩めていることに気付いた。今までも無意識に緩めていたのだろうか、そんな事をしても帰りの電車の窮屈さは変わらないのに。
 駅のホームに並ぶ。電車が来るまでの四分の間、携帯に来てた仕事のメールを確認した。少しだけ納期が短くなったのと、準備していた別の仕事がキャンセルになったと言う。ふと顔を上げれば規則正しく並ぶ周りの人たちも、同じように携帯を触っていた。
 ホームに止まった電車に、よたよたと人が入り、綺麗に詰まっていく。
 もちろん僕も例外なく、満員電車の一員として、揺れる人の群れの中。
 ふと、自分が過去ある〈固体〉では無くて、社会という〈液体〉なんじゃないかって、思うことがある。よく言われる〈歯車〉とか、そういうのじゃない。〈歯車〉には役割があって、一つでも抜けてしまえば動かなくなるだろう。例え僕が抜けたところで社会は動きを止めることも無くて、きっと抜けたことすら気付かないまま過ぎていく。
 足並みを揃えて、みんな同じように波紋に揺れている。
 瞬間に飛び出した水飛沫に、誰も目なんて向けない。
 ガタンと、電車が大きく動いた。特にアナウンスをする事もなく、電車は走行を続けていく。僕らもそれに興味を示さないまま、車窓の暗い景色は流れるまま。
 気付けば僕は電車を降りて、閑散とした駅前を歩いていた。住んでいるアパートがある線路沿いの方へ歩いて行く人は全くいなくて、この頃になってやっと僕は一人になる。いや最初から、ずっと、一人だったのかもしれないけれど。
 空いたはずの腹も何を求めていなくて、真っ直ぐ家に帰った。生きるためだけの僕の部屋は、まるでかっこよくない。唯一動きを示すものとして、ベッドの脇には読みかけの小説が置かれていた。
 カバンを机の脇に置いて、スーツをハンガーにかける。よれよれで少しべたついたスーツ、袖を通してもう四年になる。
 大人として、新しい自分が育むと信じていたあの頃から、四年か。
 きっとこのまま永遠に何も変わらない。結婚して子供が出来ても、この乾きはそのままに、死ぬまで社会に溶け込んで何も生まれない。他に何も見出せない。
 もう僕は僕として、終わりを迎えたんだ。
 だけど、もし、もし、この社会から抜け出すことがあるとすれば。
 それは目の前にかかったスーツと同じように、ハンガーに首を吊る未来だけ。
 誰にも気付かれず、目を向けられない。皮肉なスーツと共に、朽ちるか生きるかしかないんだ。

 

 

 

 

nina_three_word.

〈 ハンガー 〉

〈 皮肉 〉

〈 足並み 〉