kurayami.

暗黒という闇の淵から

ニオ

 井の頭線の電車が、下北沢の手前で大きく揺れた。反動で乗客のニオいが持ち主から離れて、少し混ざる。
 僕のパーカーに染み付いた、あの人の香水の匂いも。
 シューズの裏にこびり付いた、土の臭いも。
 マスクをしていても、それを防ぐことはできない。
 僕の嗅覚は、異常に優れていた。誰にも言ったことがない。元を辿れば子供の時に見ていた、狼が刑事として活躍するアニメのモノマネごとだったと思う。遊びから帰った夕方、家の前に着くたびに換気扇からのニオいで晩飯を当てるゲームを何度も繰り返していた。それがエスカレートして、友達のニオいを密かに覚えたりして、僕の嗅覚はどんどん発達していった。
 だから、香水があまり好きではないんだ、鼻に刺さるから。
 あの人を殺したのは、そんな理由じゃなかったんだけど。
 むしろ、愛情が過ぎただとか、不安だからとか、並べやすい言い訳のようなものだ。「あの人を隠れ家に、微かに重なっていく知らない男たちのニオいに、気が気じゃなかった」なんて、事実のまま誰かに伝えても納得もしてくれないと思う。
 いつからか、あの人が何かを誤魔化すように、香水を付け始めたんだ。本人は隠していたつもりだったのかもしれない。けど、僕の嗅覚を誤魔化せるわけもなく、あの人は知らないニオいを日に日に増やしていった。他の男たちの存在に、僕が嫉妬しているとも知らずに。
 苦しかった。でも、それでも、何もない素振りで〈僕だけ〉と笑い〈僕だけ〉にとお気に入りを教えてくれた、あの人を、今でも憎むことができない。
 そう、どんなに憎くても、この愛おしさを止めることなんて出来なくて。
 感情のまま欲望のまま、これ以上ニオいを重ねないために。僕は都内の山で、あの人の首を締めて終わらせてきた。苦しそうな顔をして「ごめんなさい」と言ったあの人の顔が、記憶が頭の中を過る。謝るくらいなら、隠さなければ、しなければ良かったのに。
 全てを終わらせた今、不思議と罪悪感も後悔もない。ただ、こんな結末になってしまって、とても哀しい。
 僕に出来るのはもう、あの人の姿……思い出を、ニオいを忘れることだけだ。そして殺すようなことがない、新しい恋を見つけること。もう死臭なんて嗅ぎたくない。
 乗っていた井の頭線の電車が、終点渋谷へと辿り着く。乗り換えの改札に行くまでの間に、また色んなニオいを嗅ぐことになると思うと気が重くなった。
 改札を出る人、入る人が交差する。
 ポケットに入れた切符を取り出そうとした時、通り過ぎて行った嗅ぎ慣れた呪いのニオいに、僕は思わず振り向いてしまった。

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈 残り香 〉

〈 隠れ家 〉

〈 土臭い 〉