kurayami.

暗黒という闇の淵から

懸河の酒

「さあ、さあ。お父さんの旅立ちに乾杯しようじゃないか」
 紅い光が微かに反射する薄暗い酒場の奥。酒気を匂わす涙目の女と、黒サロンを腰に巻いた白シャツ店員の男が、木製の机を挟み対峙していた。
 机の上に置かれた二つの小さな黒い器。中の透明な酒が、静かな揺らぎを見せている。
「あの、これは……」
 生気が見られないような焼かれた声を、落とすように女が呟いた。
「僕からの祝杯さ。もちろんお代は気にしないで」
「祝杯、ですか」
 他に客の見当たらない酒場の中で、店員の男は姿勢を崩している。適当に捲られた袖、いつもより一つ多く開いたシャツのボタンが、女には店員のスイッチを切り替えているかのように見えた。
「そう、祝杯。何も死んで〈消えた〉わけじゃない。死んで〈旅立った〉のさ。このアレな世界からね。モノは考えようだろう?」
 これは、そんな簡単なことだろうか。女がそう考えて目線だけ上げると、そこには影のかかった男の顔の、紫がかった唇だけが目に入る。
「私、弟ばかり見てて、父に何もしてあげれなかったんです。家族だと意識することもずっと無くて、失って初めて、それで……」
「うん」
「ならせめて、想い願うだけ、でも」
 女が消え入るような声でそう言って、重くも軽くも感じられる器を手に持った。その様子を見て店員も指先で器を持つ。
「お父さんに、乾杯」
「父に、乾杯」
 二人は同時に、器の中身を一気に飲み干した。味は女にとっては苦くて、強い方。しかし引っかかることなく喉を通り、まるで洗い流すようで。
 女は酒に、飲み込まれる。
「……ああ、私、なんか。なんだか今、哀しかった」
「なんだか哀しかったんだ?」
 店員は女を見て、へらっとした顔で笑いかける。
「何が、哀しかったんだい」
「なんだっけ」
 何も思い出せない女は可笑しくなって、同じようにへらっと笑い返した。
 それからというもの、女が父親の存在を思い出すことは無い。
 女の中で「父は産まれる前に失踪したでしょ」と何も疑うことなく事実に改変されていた。周りも父親が亡くなったショックのあまりに記憶を失ってしまったんだと嘆くばかり。
 四年後、女の母親が病気で亡くなった。父親が亡くなった時と同様に酒場に訪れた女は、あの店員から黒い器を祝杯として再び手に持つ。味は何処か甘くて、やっぱり酒の度数は強く、それでいて喉に引っかかることはなかった。女は再び酒に飲み込まれ、母親の存在を忘却する。
 母親が亡くなって、二年後。女にとって最後の家族である弟が交通事故で亡くなった。もはや酒場に向かうのは無意識になっていた女は、流されるがまま、求めるがまま、黒い器を再び手に持ち飲み干す。柑橘系の酸っぱい味。強い酒は引っかかることなく、女の喉を通っていく。
「ああ、私は最初から、一人だったね。一人だったよね」
 一人酒場に、確認するように、泣いて呟く。
 そこにはもう誰もいなくて、女の記憶の中には不健康そうな弟の記憶、一人だけ。

 

 

 

 


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〈 祝杯 〉