kurayami.

暗黒という闇の淵から

沙魚

 不意に、最近夢に見た魚を思い出した。
「ああ〈縁〉も酣だ」
 夜十時。冬の東京駅丸の内口には不自然なほど人はいなくて、僕が呟いた言葉がやけに響いていたと思う。そんな不自然にも気付かない彼女は、何食わぬ顔で改札を通ろうとして、止まった。
「宴も酣? うん、そうね。あとはホテルに行くだけだもの。デートとしては盛り上がりも良いところかも」
 慣れた幸せに浸かり切った温い笑顔を見せて、彼女は僕に返す。
 いや、きっと、理解していない。
「そうだね、これは僕と君で始めた宴だ。二年前の夏のあの日に、誰も見ていない日陰で始まった」
 彼女は相変わらず笑顔のまま、僕の言葉を聞き続けている。
「うん。人知れず始まった楽しい宴の日々」
 その笑顔の裏に何を理解しているのだろう。
 僕のことを、知っているのだろうか。
「とても楽しかったよ。春に見た……桜吹雪に襲われた後の青空なんて、今でも忘れられない」
 春の終わりに訪れた河川敷での突風。あのときの君の表情。
 しかし、宴の酒はいつしか腐っている。
「ねえ、君は幸せだった?」
「幸せだよ」
 僕の問いかけに即答で返した彼女は、ただ一言「今も」と付け足した。その一言が余計で、僕の感情を崩していく。
「気付いてくれよ」
 涙の感情が溢れそうになるのを堪えて、僕は呟いた。
 しかし、彼女はずっと温い笑顔のまま、へらへらと纏わりつく。
「気付かないよ。駄目だよ、そんなこと言っちゃ」
 そう言って袖を引っ張る彼女の手は、とてもか弱い力のはずなのに、何故か酷く重く感じる。この誰もいない丸の内口が沈んでしまいそうなほど。
 ああ、魚の夢のままだ。淡い紫の宇宙の中でひらひらと泳ぐ細い魚。僕の大切な良し悪しを勝手に分けて、悪いモノだけを咥えて捨てていた。
 広い宇宙。そこにぽつんと残るのは彼女だけ。悪いモノとして捨てられていたのは、僕自身だけだ。
 自覚していたつもりで、避けていた事実。
 こんな悪癖塗れの僕といれば、彼女は幸せになれない。
「行こう、宴はまだまだ続くよ」
 無邪気にも残酷にも、僕の袖は掴まれたままだった。この小さな手を乱暴に落とせば終えれるのに、そんな簡単なことが出来ない。それもそのはずだ。今までだって僕は甘えてきた。遠慮することをせず、一歩も引かない図々しさで生きてきた。
 このまま宴の酒に溺れることが出来るのなら、どんなに良いのだろう。
 だけど、そんなことは許されなくて、僕はこの慣れた幸せを締めなければならない。
 酒も〈縁〉も、とっくのとうに、腐っていたから。
 

 

 

 


nina_three_word.

〈 酣 〉
〈 袖 〉
〈 鯊 〉