kurayami.

暗黒という闇の淵から

不完全再生少女

 初冬の夜の匂いが、煙草を咥えた男をベランダへと誘い出す。住宅街の隅に建てられたマンション七階から見える景色は、ばらついた色の屋根の群れ。男にとっては見飽きた景色だった。だからこそ、煙草を吹かして遠く見つめる景色は住宅街ではない。
 思い出せないはずの、記憶の断片。
 ノイズ塗れの、はにかみ顔の少女。
 再生。それは男が稀に思い出せる断片であり、忘れてしまった断片だった。名前も、正確な声も、顔すらも思い出せない少女。しかし、ノイズ塗れの存在は確かに照れ隠しを交えて男に語りかけている。現実味のある過去らしく。
 自身の年齢も正確に言えないぐらいに男は歳を重ねていた。大学生だった頃は〈昔〉となって、高校生だった頃が〈幻〉に溶けている。中学生や小学生だった頃の記憶は現実味が無いほどに遥か過去だった。思い出そうにも何一つ正確なモノはない。その中でも唯一、名も忘れられた少女を不完全な記憶として無意識に再生していた。
 男が吐いた煙草の煙が空中に溜まって、風に流される。再生される少女の記憶はいつだってランダムだ。教室らしい場所。地元の公園。近付いてはいけないと言われていた河原。ノイズ越しに見える少女の年齢は不確かだった。私服が多いようで、たまに何処かの学校の制服を着ている。だが男にとって、それは記憶が勝手に補完しているだけに過ぎないと、何時の時代の少女かを思い出すのに当たって手掛かりにはならないと考えていた。重要なのは少女の存在が確かにいて、男に接していたということ。
 幾つかの共通点に、男は既に気付いていた。少女の周りには常に人がいないこと。思い出される場所は気軽に行ける二人きりになれる場所だということ。男にとって、淡いモノだったということを。しかし、気付けるのはそれだけだ。
 二人きりの時間。
 はにかみ顔の少女。
 ノイズ塗れで正確に思い出せない関係、言動、思い出。
 確かめようがなかった。いや、男は確かめようとしなかった。はっきりと思い出したところで、記憶は過去であり、もうその少女はいないのだと察していたからだ。過去は過去だと、今あるのは現在だけだと、男は知っている。
 むしろ思い出さなくて良いと、思っていた。
 男はノイズ塗れの少女に、病み付きになってしまっていたから。
 不確かで清く純粋な淡い記憶。思い出すたびに過去を肯定し、汚れていなかったことを証明する。ずっと消えない蝋燭の心細い灯火。男にとっての、救済。
 冷たい風が男の鼻を掠めた。
 正体不明の記憶に縋る程に、歳を重ねてしまっている。

 

 

 


nina_three_word.

〈 はにかみ顔 〉
〈 忘れたこと 〉
〈 やみつき 〉