kurayami.

暗黒という闇の淵から

グラデエション

「私は、この部屋の窓を酷く気に入ってるよ」
 男は窓から溢れる眩いばかりの陽を背に、暗い部屋の奥へと話しかけた。
「夕焼けが好きだからね。景色の向こう側へと沈む様子をいつまでも見ていられる。特に珈琲を淹れることもなく、ただ黙って手ぶらで眺めるだけでいい。ああ、本当なら貴女と窓の前に並んで……いや、少し歩いた所に丘がある。高く見晴らしが良く、静かな場所にベンチがあるんだ。そこに座って一緒に夕陽を眺めて、そのまま変わりゆく空を貴女と一緒に見てみたい。覚えているだろうか、橙と闇のグラデーションを。……まあ、それはもう、過去の話なんだろうが」
 窓の縁に体重をかけて語る男に対して部屋の奥から返事はなく、代わりに『夕焼小焼』のチャイムが外から鳴り響いた。
「もう子供たちも帰る時間だ。本当なら……私も。だが、まだそれが出来ない。せめて残り三日はここに。だから、それまでに決めねばならないね。私たちの軌道の行先を」
 朽ちた窓の縁を男がなぞり、横目に部屋の奥を、暗闇の中を睨む。街の各地で鳴っていたチャイムは、多少のズレを起こしながら何回も終わりを迎えていた。部屋が冷え込み始める。演じる男の言葉に戸惑いが出現する。
「どうせ私たちに希望は無い。無いだろう。ならばいっそ次も悲劇なんてどうだ。何も悲劇の次が喜劇である必要なんてない。無理に幸せを演じても嘘臭いのだから。なあ、あの悲劇でどれだけの感情を解放出来たんだ。残酷な秒針の中に正当さを感じてしまったのは私だけか。貴女はどうだったか」
 沈んだ陽が徐々に部屋を暗闇へと侵食していく。本棚に並ぶ三百六十のタイトルが読めなくなり、床の木目が溶けていった。
「光が許されるのは幼い子供だけさ。時は夕焼け。徐々に徐々に、夜へと変わっていく。悲劇は正当だ。喜劇は虚。カタルシスの存在がその証拠だ。人は自身を傷付けることでしか救われない。貴女は造られた幸福に何を想う」
 目線の先には街灯によって薄く伸びた男の影。
 誰もいない部屋は勿論返事をしない。それだけだ。
「否定することでしか立っていられない私を、どうか許してくれ。だが人生の軌道は光に始まり陰に終わることを解って欲しい。返事は良い、構わない。そこでずっと揺れていてくれ。これからも貴女は私と一緒だ。ずっと」
 窓の外から陽の気配が完全に消えて、男は座り込む。何も無い部屋を見つめて男はただ、悲劇がこれからも続いていくことを自覚して、唇を噛んだ。
「長い光陰の中に、せめて貴女がいてくれたら」
 それは揺れるモノへではなく、この夜の何処かにいる彼女へ向けた言葉。

 

 

 

 


nina_three_word.
〈 軌道 〉
カタルシス
〈 光陰 〉