kurayami.

暗黒という闇の淵から

氷菓、酔歩

 日曜午後の高円寺は、暖かさと平凡に溢れていた。高円寺特有のアーケード続きの商店街を各々が求めた店へと向かって人が流れていく。俺だって、その一人で。気怠そうな足が向かう先は路地裏にあるカフェ。飢えに渇いた喉が、甘い炭酸を求めていた。
 そのカフェを見つけたのは先々月のこと。ここに引っ越してもう二年近くになるが、こうして新しいカフェを見つけられるのがこの町の魅力だと思う。独特の空気感を持つこの町だが、呼吸はしやすいんだ。
 そうだ、息ができる。
 ああ。少しずつ、少しずつ、平凡らしさを取り戻せていると思う、思うけれど。
 商店街を一つ外れた路地裏。見過ごしてしまいそうなほど小さな看板を添えた入り口の、細い階段を登った先、アンティーク調の扉の中。古いスピーカーを通しているとわかるような音質で、メロウジャズが聴こえてきた。急ぎ足が一歩を踏み出せば軋む床、脇には敷き詰められた土が、店内を中庭のような演出に仕立てあげている。窓からの明かりを頼りに照らされた店内には、木製の机と椅子と、疎らに客が数人。
 俺は二番目にお気に入りである窓際の席へと座った。一息ついて、体重が深く深く沈む椅子に安心する。窓の外に広がる商店街屋上の低い空は気持ちが良いほど晴天だった。いつからか陽の光を好むようになっていた。いや、求めるようになっていた。周りとの境界線を曖昧にする夜を好んでいた数年前と大違いだ。
 いつからなんて、ナンセンスだ。わかりきっていることだろうに。
 やわらかく纏わりつくモノから逃げ出すように這い出た眠らない町が、頭の奥、蜃気楼のように広がっていた。夜の闇を薄い黄金色が照らすあの町を。一つ思い出せば三つを思い出すように記憶が展開される最中、突然、目の前に提供された冷たい白と透き通る緑に凍らされて、思考すらも奪われる。
 クリームソーダ。ずっと飲みたかった気がする。それこそ、いつからか。底から弾ける気泡、冷たさがグラスに汗をかかせる。恋のように落ち着かない甘さが俺の手の届く範囲にある。しかしそれでも、穏やかで優しい俺だけの時間が、いつの間にか完成されていた。アイスが溢れないようにとストローで中身を吸えば、喉が潤っていく。酔った足取りのような思考も視界も鮮明になって、改めて見渡せば落ち着いたカフェだと再認識する。何度だって安心する。何度だって俺は、二つの町を比べていた。
 何度も? いや、まさか。
 カフェの中、二番目にお気に入りの席で過ぎていく時間。携帯を触って、呟かれるタイムラインを遡り、気が向けば小説の頁を捲っている。青い空は次第に淡くなって、色を世界秩序に乗っ取って紅く変えていく。アイスが溶けて味が変わるクリームソーダのように、徐々に徐々に、夜と記憶の奥へと。
 カフェを出た俺の足は、自然と高円寺線路下にある酒場をふらふらと回っていた。安い酒やカクテルの味も、結局は同じアルコールだ。偶然そこにあった事象が〈過去のあの町〉に繋げているわけじゃない。こんな日は今日だけじゃなかった、気付いてしまったのが今日だっただけだ。ああ、俺という無意識が〈過去のあの町〉へ結びつけている。汚れた路上、慣れた鼻を刺す臭い、暗灰色の、空。酒、酒、酒。酒気。
 酔った足取りは駅の登りホームでふらつく。自身の首を快楽に任せ締めるかの如く、息ができないあの町へ向かおうとする。そう、酔歩する身体は覚えていた。
 例え素敵で平和であるクリームソーダであろうと、
 飲み干せば汚く泡がグラスに残るように。