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kurayami.

暗黒という闇の淵から

発酵と腐敗

n3w 習作

 最初は、ええ、喜びました。彼が帰ってきたのですから。
 彼が死んだ日を、幾つも越してきました。彼が死んだ雨季を、幾つも越してきました。
 それだけ私は哀しんで、決して楽観することはありませんでした。彼のことを、私はずっとずっと愛しているからです。あの日、時計台に雷が落ちたあの日から、私はずっと病むように彼に恋をして、呪われたように彼を愛しているのです。
 ファントムの彼は、雪の日にふらっと、私の庭に現れました。私は、ただ驚きもせず、ただただ、死臭のする彼を抱きしめ、喜びました。
 彼は、表情を変えることはありませんでした。無理もありません、彼は死んでいるのですから。それでも構いません。私はただ、その死臭を嗅ぎ、安心できたらいいのです。
「ねえ、白ワインと赤ワインがあるのだけれど、貴方はどちらがいいかしら」
 彼にそう聞いても、彼は首を傾げているだけでした。
「ふふ、赤ワイン?」
「アア」
 その唸り声はきっと「君と同じものでいい」ということでしょう。私は赤ワインを、二人分注ぎます。
「ねえ、ねえ。明日はクリスマスよ。だから今日はイブ。大人になるとそういうの、忘れちゃうものね。だから、イブを祝い、乾杯しましょう?」
 私は、彼がグラスに触れる前に、そのグラスに乾杯して、赤ワインに口をつけました。辛口のワインが、臓に染みていくのを感じました。
「貴方、知ってるかしら。発酵と腐敗の違い」
 私は赤ワインを、片手で揺らしました。高い味なんて私にはわからない、彼がワインを好きだったから喉に通すだけです。
 彼は、片手でワインの入ったグラスを払いのけ、机に落としました。
「それはね、良い微生物、悪い微生物、その違いだけらしいわ」
 私は落ちたグラスに目を向けず、彼の〈顔〉を見続けました。
「この……彼が好きだったワインは、もちろん発酵して作るものなのだけれど、きっと、貴方も発酵の方に違いないわ」
 私にとって、きっと良い微生物。
 私は立ち上がって、彼に近付きます。もし彼だったら、私が立ち上がったタイミングで立ち上がるでしょうね。
 彼が付けている……彼のデスマスクを、私は指でなぞりました。その涙袋、頬、唇。ああ、懐かしき彼。今も哀しさを募らす彼の亡き顔。
「ねえ、貴方はその腐敗した顔を、見られたいのかしら」
 デスマスクを付けた彼に問います。きっとこのデスマスクを外せば、この仮に延長された恋は終わりを告げ、新しい恋が始まってしまうのでしょう。
「私は……私からは、絶対に外さない」
 意地悪に、そう、笑ってあげました。
 発酵した仮初めの彼と、もう一時を過ごすため。

 

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〈 ファントム 〉

〈 ワイン 〉

〈 マスク 〉

クシラ

n3w 習作

「ねえねえ、知ってる?」
 子供たちは、噂話が好きだ。
「午前四時に、片足立ちで台所の蛇口を三回捻ると、鯨が出てくるんだって……」
 噂話というものは、子から子へ、ないしょ話として伝わっていく。
「四時にね、台所の蛇口を三回捻ると、鯨が出るんだって」
「午前? 午後?」
「ええ、午後だった気がするなあ」
 形を変え、伝わっていく。
 元の話通りにやっていたのなら、本当に鯨が出て、また別の物語になっていたのかもしれない。
「午後五時に靴下を脱いで台所の蛇口を四回捻ると、鯨が出てくるんだって!」
「夕方にね、台所で裸足になって、蛇口を四回捻ると、鯨が出てきて何でも願いを叶えてくれるんだってさ」
「夕暮れ時に裸足になって両足を揃えて、蛇口を最後まで捻ると、願いを叶える鯨が出てくるらしいよ」
 ひそひそ、ひそひそ。
 噂話は、伝言ゲームだ。
「ねえ、知ってるかな。願いを叶える鯨の話」
「知らない」
 帰り道、二人の少年がないしょ話をしている。
「誰にも言っちゃダメだよ。空がね、夕陽で真っ赤なときじゃないとダメなんだ。あと、絶対一人のときじゃないとダメなんだって」
「なんだそれ、多くない? その、決まりごとみたいなの」
「まあまあ、願い事叶えるためだからさ。それでえっと、なんだっけ。そう、電気を消した台所で、裸足を揃えて立って、蛇口を最後まで捻るんだって、そうすると願いを叶える鯨が出るらしい」
「ふうん」
 間違って、伝わっていく。


「ただいま」
 噂話が伝わった少年は、家に帰った。母子家庭の少年の家には、まだ誰も帰っていない。
 奥の台所から、真っ赤な夕暮れの光が差し込み、廊下に漏れている。
 少年は洗面所で手を洗い、台所へ麦茶を取りに行く。冷蔵庫の中に入った夕飯を確認して、グラスに麦茶を注ぎ、それを飲み干した。
 台所の蛇口を捻り、グラスを濯ぐ。そのとき、静かな台所で、少年は願いを叶える鯨を、思い出した。
 誰もいない電気の消えた台所。真っ赤な空。今は、揃っている。
「……なんだっけ」
 少年は、靴下を脱いだ。きっと、噂を確かめる条件が、すぐに揃うからだろう。少年を動かすのは、鯨に願いを叶えてもらいたいからより、噂話の真相を確かめることへの好奇心。
 裸足になり、両足を揃え、少年は蛇口を全開に捻った。
 水が大きく音を立てて、シンクの中で響く。
「…………」
 鯨は、現れなかった。対して期待をしていなかった少年は、蛇口を戻し、後ろを振り返る。
 そこには、水に濡れた人間が、その頭と同じ大きさで口を開き、立っていた。


「ねえ、知っている?」
 噂話は、間違って伝わっていく。
「鯨の喧嘩に海老の背中が、裂けちゃうんだって!」
 ただし、決して間違っているわけじゃない。
「なにそれ」
「知らないよう」
 間違った方法は、別の何かとして、成功する。
「あのね、真っ赤な夕暮れの日にね……」

 

 

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〈 鯨 〉

〈 台所 〉

〈 噂話 〉

 

騎士の唄

n3w 習作

「すとっく、すとっく、ないっ」
 陽の出た日曜日。家の前で少女が歌を口遊み、犬の毛繕いをしている。
「すとっく、すとっく……ねえ、マーマ、この歌ってどういういみー?」
 少女が開いた玄関の奥に向かって、問いかける。
「ねーえ。マーマ」
「国のために、男はどんどん騎士になろうねって、歌だよ、カリナ」
 男の声に少女……カリナが顔を上げる。
「パパ!」
 カリナが顔を輝かせ、父……ユウイに抱きついた。
「カリナ、カリナどうしたの。ってあら、貴方」
 玄関から母……セリアが顔を出した。
「ただいま、セリア」
「……どっち、かしら」
 セリアが不安そうに、顔を曇らす。
「すまない……悪い方だ。もう、二日後には戦争が始まる」
「そうなの……」
 ユウイの言葉に、セリアが暗い声を出した。
「えーパパまた行っちゃうのー」
 カリナが寂しそうに、大きな蒼い目でユウイを見つめた。
「また行くけど、必ず帰ってくるさ。ほらほら、玩具を買いに、街にデートと行かないか?」
「えっ、カリナお洋服がいい!」
 そう言って、カリナは家の中に準備しに戻る。
「大丈夫さ、必ず帰る」
 ユウイがセリアに向き合い、抱きしめ、約束する。
「俺は、この国の騎士だからな」


 戦争が始まり、数ヶ月。どちらが優勢になるわけでもなく、ただただお互いがお互いを抑えるような攻防が続く。両国の物資が尽き、戦争が終わるのは時間の問題となっていた。
 曇が柔らかく浮かぶような、晴天の日のこと。ユウイが所属する部隊は、国の研究所を守備し、その日を終えれば、一度、国へ戻れる予定となっていた。
 しかしその日、多くの敵が研究所を攻め込んだ。攻防の末、敵を全滅することにユウイたちは成功したが。失ったものは、多かった。
「ああ、ユウイさん……片腕が……」
 ユウイの部下が、爆発で弾け飛んだユウイの片腕を心配した。
「下半身飛んでる奴に心配されたくないよ。いいから、眠れ。お前はよく頑張った」
 ユウイがそう言うと、部下は安心したように、黙った。
「……ストック、ストック、ナイト」
 懐かしい歌を、忌々しい歌をユウイは口遊む。
「代わりはいくらでもいる、か」
 ユウイは、片手のランスを握りしめる。
 騎士道精神に、代わりなどない。己が積み上げたモノだけだ。しかし〈代わり〉は。
「カリナ、セリア、すまない」
 最後の最期。その後までユウイはランスを手放すことを、しなかった。


 一ヶ月後。
「すとっく、すとっく、ないっ」
 日が暮れた水曜日。少女が、門の前で口遊む。
「……パーパ」
「呼んだかな?」
 男の声に、カリナが振り向く。
「パパだ、パパ!」
「ただいま、カリナ」
 男の両の腕が、カリナを持ち上げた。


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〈 騎士 〉

〈 口遊む 〉

〈 ストック 〉

蛆虫と背徳心

n3w 習作

「やっぱり、駄目だよ。僕には……できない」
 少年が、ナイフを片手に躊躇った。
 廃工場のような、廃れた建物の中、深夜。細身の少年と、猫背の男、そして二人の前には虫の息となった少女が、横たわっていた。
「おい。思い出せよ、こいつが今まで、お前にしてきたことを」
 男が、片目で少年を睨んだ。
「そうだけどさ……だけど……」
「俺が言うんだからよ、間違いない。こいつは殺すべきだ」
 殺せ、殺せと、呟く男。
「この子は、僕に優しくしてくれた」
「だからお前は恋をした」
 待ちくたびれた男が、転がっていたドラム缶に腰をかけた。
「僕が困っているときは、手を差し伸べてくれた」
「お前はその手を取った」
 少年は、少女の横に膝をつく。
「毎日のように、話しかけてくれた」
「その言葉をお前は覚えた」
 破れた天井の隙間には、中途半端な月が浮かんでいる。
「大好きで、大好きで……」
 少年は、手の中のナイフを握り直した。
「だからこそ、お前は憎いだろう。毎日毎日お前を悩ませ狂わせた。そして俺 が生まれた」
「あんたが……僕の背徳……」
 少年が、隈のできた目で、男を見た。少年にとっての背徳心が、にやにやと笑っている。
「……憎いよ、愛おしいほど」
「なら、殺せ、殺せ」
 男がまた繰り返し、呟く。
「蛆虫のような存在じゃないか」
「……蛆虫だなんて、蛆虫に失礼だよ」
 少年が再び前を向く。前髪がはらりと顔にかかった。
「こいつは生きてるだけで世界の害だ」
「うん、この子がいるだけで、世界は最低最悪だね」
 男が立ち上がる。
「このまま生かしておいて良いのか」
「良いはずがない。この不潔な魂の存在を、僕は否定する」
 少年が、両手でナイフを握り直す。その手は硬く、震えがない。そして振り上げ、少女の腹へと降ろした。
 水風船を刺すような、張った感触を一瞬。そして、ナイフは少女の内部へと入っていく。虫の息だった少女が、枯れた声を出す。少年は手応えを感じ、ナイフを刺したまま、震える。
「好きだ、ああ、好きだなあ。好きだよ、とっても」
 少女は、少年の声に答えない。それを確認した少年が、何度もナイフを振り下ろす。何度も何度も。
 少年が気付いたときには、少女の魂はもう、そこにはない。あとはただ、蛆の餌となる肉塊がそこにあった。
「名残惜しいか?」
 哀しそうな目をして、男が訪ねる。
「あんたがそれを聞くんだね」
 少年が、ハンカチで少女の返り血を拭った。絶命した少女を、少年は見向きもしない
「名残惜しいから、殺したんだよ」
 背徳に満ちた表情で少年はそう答え、霧が晴れるように男が消えた。


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〈 名残り 〉

〈 背徳 〉

〈 蛆 〉

 

嘘強がり

n3w 習作

 私は何度だって、ここに来る。
 いつも通りの帰り道、いつも通りの中央線。いつも通りのこの時間。
 全部がいつも通りの夕焼け空の下。私はふと思い立って、この駅で降りる。いつも降りる駅の二つ、三つ前。時間で言えば十五分前だ。
 北口は下校途中の高校生と、たまに登校途中の定時制の高校生がごった返している。今日は特に人が多いなあと思ったのは、きっと駅前のあの集団のせいだろう。スピーカーを片手に何かを訴えている。ちゃんと、響くのかな。

 きっと、もう少しだけ、ほんの少しだけ、あの場所が近かったら、私は毎日のように通っていたのだろう。だけど、毎日通うには遠すぎる、だからこそ救われる。
 隣の君を想うことが日常だったら、それはきっと、地獄なのだから。

 人の流れに逆流するように進んで、ちょっと背伸びしたモノレールの下を進む。ベンチに座る高校生たちこそ、昔のあの頃、それこそ隣の君より昔を思い出すよ。ここがモノ下と呼ばれていると知ったのは、後輩たちが教えてくれたんだ。いや、それこそ隣の君だったかもしれない。
 映画館沿いのカフェと、空き地を囲うフェンスに挟まれた細く長い通路を通った先に、だだっ広い草原と、その草原の中から盛り上がったような建物が存在する公園が現れる。
 高校在学中、この公園を毎日見ていたのに一度も行かなかったのに、隣の君は私の手を引っ張って、あっさり連れて行ってくれた。
 その影響が今もこうして、あるだなんて知ったら、隣の君は笑うだろうか。ひいてくれるだろうか。
 盛り上がったような建物への道を、くねくねと進む、あの景色に間に合うかな。草原には疎らに人がいた。今日は人が少ない方かも、少しラッキーだ。
 建物の上、その奥。ここにはやっぱり、人がいなかった。好き好んでここにくるのは、隣の君のような変わった奴と、私みたいに囚われた奴だろう。
 その景色には、間に合った。いつも隣にいた君が教えてくれた、絶好の場所。
 広い広い無限の空に、橙色が染め広がっている。
 誰もいないここは、本来君に伝えたい言葉を、独り言にして吐き出すのには、ちょうど良かった。
「        」

「            」

「     」

「ねえ」

 何度、何度呟いても、やっぱり、隣には君がいない。君は目の前の夕景色の中で夕映えとなっている。
 隣じゃなくて、前に。それがどんな意味かだって、私にもわかっている。
 無限の空が、徐々に大黒幕に隠されていく。それと同時に、夕映えの君も、桔梗色に消えていく。
 私やっぱり、消えていく君が大好きだよ。

   

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〈 隣 〉

夕映え 〉

ホリゾント 〉

湯冷めした者より

n3w 習作

 休日、木曜日の午後。郵便受に、質素な封筒に包まれた手紙が入っていた。
 送り主は、匿名だった。

 封筒には、汚い筆跡で住所が書かれていた。漢字で蓋をするべきものが、蓋をされていない。平仮名の「い」と「り」の区別が怪しい。この筆跡を知っている。
 部屋に戻った僕は、彼女に買ってもらった真っ黒なマグカップに、ドリップコーヒーを薄めに入れ、お気に入りのスピーカーで曲をシャッフルで適当にかけた。偶然にも、彼女も好きなバンドの曲が流れて、嬉しくなる。
 手紙とコーヒーを持って、窓際の木製のチェアに腰をかけた。封筒の端を手で破いて、中身を引っ張り出す。それは、やっぱり質素なデザインの手紙だった。


 真庭浩司へ
お前に言いたいことがあって、筆を取った。これから先に期待するべきじゃない、これは忠告だ。
恋人にも、友人にも恵まれたその時間が、一生続くと思うなよ。あっという間にそれは無くなっていく。そんな希望はロクでもない。
お前は僕みたいになってはいけない。例え心地の良いぬるま湯でも、取り上げられてしまえば、湯冷めをする。一生治らない風邪だ、病気だ。
そんなことになったら、最悪の時間を過ごすことになる。覚悟しておけよ。
 湯冷めした者より

PS お前が今使っているマグカップは、近いうちに壊れるぞ。 


 読み終わった僕は、台所に腰をかけて煙草に火をつけていた。手紙は、どうやら幸福な一時を引退した人からのようだ。
 煙草の煙を、大きく吸って、勢いよく吐いた。煙が一瞬空中に留まり、換気扇の方へと流されていく。
 この手紙は送り間違えだ。ただし、宛名は間違いなく、僕だが。
 〈湯冷めした者〉と僕は、大きく違う。
 僕は今、この恵まれた幸福にはいつか、最悪か最高かの形で終わりが来ると、わかっている。どんな形であれ、全てに等しく終わりは来る。友人にも、恋人にも。家族にも。
 今の彼女とだって、いつか、何かしらの終わりは来るんだ。だけど、今のところは大好きで愛しているから、終わりそうならば心中を望む。なんとかして、終わり方ぐらいは、選べないものだろうか。
 〈湯冷めした者〉と僕との違いは、終わりへの覚悟だった。
 終わりを知らない末路と、知る末路は大きく異なるだろう。その中でも、この手紙は終わりを知っている僕の元へと届いた。
 僕は仕方がなく、この手紙を送り返してやることにした。ついでに、現状の湯の熱さも、同じデザインの質素な手紙で教えてあげることにした。
 それはもちろん、匿名で送り返すと決めている。
 

nina_three_word.

〈 引退 〉

〈 匿名 〉

〈 湯冷め 〉

シブヤユウホ

n3w 習作

 雑多に人が流れる、改札を出た。見上げればもう、すっかり夜になっている、ああそうだ、いつもここに来る時は夜だった。
 ひしめく人の声の隙間を通り、地下道への階段を迂回する。交差点の向こう側には大きなモニターがいくつか見えた、ビルに張り出された大きな広告には、僕がよく聴くアーティストが張り出されている。
 あの時は、あの頃は、こんな風に周りを見ていなかったと思う。
 僕が見ていたのは、君だった。

 仕事で東京に来た帰り道、僕は近くにあった渋谷へと立ち寄った。
 この渋谷に、何か置き忘れたままな気がして、それを取りに行こうと思って立ち寄った。それが何かはわからないけど、辿ればわかるはずだ。
 スクランブル交差点の向こうにあるモニターは、あんなに大きかっただろうか、あんなビルあっただろうか。数年来ないだけでまるで知らない街みたいだ。しかしそれは、きっと上を向かなかったからだろう。周囲を見渡せば、君と一緒にあの頃がそこに浮き出る。
 いっそのこと電話をかけてしまおうか。そう思って、止まる。こんな余興に付き合わせるのは、良くない。それに、僕にはもう、そんな勇気もないだろう。
 スクランブル交差点を渡った先、センター街へと入った。何かと行く先が決まらないときは、渋谷のセンター街へと来ていた君と僕だ。
 歳下の君がぶつからないように、気を配って歩いたこの人混みも、今じゃ全く気にする必要もない。それは軽いようでとても重い。見上げれば〈バスケ通り〉と書いてある、そんな名前だったのか。ああそうだ、そういえばそうだ。歩きながら話をした。そうそう、それで流れるように……気付けば僕は、ケバブを買っていた。よく君と一緒に食べたケバブは、今も濃い味のままだ。
 ふと、向かいの壁際を、鼠が這うように走っていった。見かけるたびに君が嫌そうな顔をしていたね。今じゃ、僕が鼠のようなものだ。まるっきり同じだろう、こうして残り滓を求め這う姿は。
 細いスペイン坂を通り、君がの好きなデパートだったものを見上げた。大通りの坂を下って、君とよくお茶をしたカフェを見た。
 思えば、どのシーンにも、君に伝えられなかった言葉がふわふわと、そこに浮かんでいる。これが、置き忘れたものなのか。しかし、今更……
 気付けば、井の頭通りの真ん中に立っていた。ビルとビルに圧迫された狭い空には夜が塗られている。どうやら僕は、渦巻き状に思い出を回っていたらしい。
 それなら、ここが、この渋谷遊歩の終わりだ。だとしたら、置き忘れたものの、答えが出た。
 手元にあっても意味のない、焦燥感。

 

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〈 渦巻き 〉

〈 辿る 〉

〈 ねずみ 〉