kurayami.

暗黒という闇の淵から

カゲロウ

 僕にはフォーカスが合わない。
 そう、普段から思っていた。
 駅は、帰路に急ぐ人々で溢れ返っている。時間にしてまだ平日午後三時。普段夜中に帰る僕は、この時間の帰り道を知らない。ああ、知る由もない。僕は日常のレールからわざと外れ、逃げるようにこの帰り道を進むのだから。
 真夏色。頭上には雲一つない青空が広がっていた。ネクタイを緩め、ただでさえ憂鬱だというのに、暑いという文句が少し漏れそうになってそれを涼風が攫っていく。そう言えば夕方から雨が降るという予報があったが、空を見る限りそれらしき予感はさせない。涼風は不自然なほど都合の良い役に際立っている。だからこそ、頭が余計に冷めて、思考がぐるぐると巡ってしまう。
 会社を仮病で早退したのは、初めてのことだった。
 いや、まだ入社して一年と少し。そのうち起こり得ることが起きただけ。そう、やって、楽観視出来ないのは僕の性分が出ていた。罪悪感と絶望感。そもそも早退へと追い込んだ大元の虚無感は未だに根底に残っていて、僕の内情はそれは酷く歪んで混沌としていた。
 蝉の声と汗は、現実問題を遠くに遠ざけるようで、ただ鬱陶しさに置換している。家へと向かう足取りは速くて重かった。側から見たらわざと焦って歩いているじゃないかってぐらい。誰も、ぼんやりとした僕なんか見てないはずなのに。
 限界が訪れたらしい。窓際から一番遠いデスクで、今まで通りの仕事をこなす時間の中で、ふと視界が暗くなったんだ。向こうから、やってきた。見向きもしなかったのがいけなかったのかな。そんなはず、ないんだけれど。
 ビルとビルの隙間をよこたわる細い道に、捲き上げるような風が僕を向かい入れて包む。目を細めて進むと見晴らしが良くなった。街を分ける大きな河川敷だ。僕の遠回りな帰り道。どこまでも深く続く青空と灰色の街の境界線に藍色の川が流れていて、大きな入道雲がそこにある。
 広がった景色に、泥のような感情が剥がれ落ちるのを感じた。
 溶けるように、暑さを忘れ、早退した事実からの罪悪感が消えていく。重かった身体が軽くなって、次第に残った虚無感だけに支配されて足が自然と河川敷を降り始めた。ぼかしていた正体が露わになっていく。水流の音が近づいて、夏の音が遠くなっていく。
 思考の中を、黒いレースの日傘がくるくると回って、過ぎた。
 忘れものをしてしまったらしい。まだ大人にもなっていない経過の道の中で、もう引き返せないというのに。いつかの夏。何度も悔やみ思い出して。分岐点だったなんて無意味に悔やみながら、今が正解だって認められない。正解を持たない。いつの間にかフォーカスの合わないぼやけた人間になってしまっていた。ああ、この時間は、老いは、成長は。
 気づけば深い草原の海をかき分けるほど進んでいた。すぐそこには水流の気配がして涼しい。見上げると真っ青な空に、黒い蜉蝣の群れが飛んでいた。綺麗だ。コントラスト分ける蜉蝣たちが、まるで夏の穴のようで。
 空っぽの蛹からは、何が羽化するというのだろう。
 僕はいつまでも、見えないまま。

氷菓、酔歩

 日曜午後の高円寺は、暖かさと平凡に溢れていた。高円寺特有のアーケード続きの商店街を各々が求めた店へと向かって人が流れていく。俺だって、その一人で。気怠そうな足が向かう先は路地裏にあるカフェ。飢えに渇いた喉が、甘い炭酸を求めていた。
 そのカフェを見つけたのは先々月のこと。ここに引っ越してもう二年近くになるが、こうして新しいカフェを見つけられるのがこの町の魅力だと思う。独特の空気感を持つこの町だが、呼吸はしやすいんだ。
 そうだ、息ができる。
 ああ。少しずつ、少しずつ、平凡らしさを取り戻せていると思う、思うけれど。
 商店街を一つ外れた路地裏。見過ごしてしまいそうなほど小さな看板を添えた入り口の、細い階段を登った先、アンティーク調の扉の中。古いスピーカーを通しているとわかるような音質で、メロウジャズが聴こえてきた。急ぎ足が一歩を踏み出せば軋む床、脇には敷き詰められた土が、店内を中庭のような演出に仕立てあげている。窓からの明かりを頼りに照らされた店内には、木製の机と椅子と、疎らに客が数人。
 俺は二番目にお気に入りである窓際の席へと座った。一息ついて、体重が深く深く沈む椅子に安心する。窓の外に広がる商店街屋上の低い空は気持ちが良いほど晴天だった。いつからか陽の光を好むようになっていた。いや、求めるようになっていた。周りとの境界線を曖昧にする夜を好んでいた数年前と大違いだ。
 いつからなんて、ナンセンスだ。わかりきっていることだろうに。
 やわらかく纏わりつくモノから逃げ出すように這い出た眠らない町が、頭の奥、蜃気楼のように広がっていた。夜の闇を薄い黄金色が照らすあの町を。一つ思い出せば三つを思い出すように記憶が展開される最中、突然、目の前に提供された冷たい白と透き通る緑に凍らされて、思考すらも奪われる。
 クリームソーダ。ずっと飲みたかった気がする。それこそ、いつからか。底から弾ける気泡、冷たさがグラスに汗をかかせる。恋のように落ち着かない甘さが俺の手の届く範囲にある。しかしそれでも、穏やかで優しい俺だけの時間が、いつの間にか完成されていた。アイスが溢れないようにとストローで中身を吸えば、喉が潤っていく。酔った足取りのような思考も視界も鮮明になって、改めて見渡せば落ち着いたカフェだと再認識する。何度だって安心する。何度だって俺は、二つの町を比べていた。
 何度も? いや、まさか。
 カフェの中、二番目にお気に入りの席で過ぎていく時間。携帯を触って、呟かれるタイムラインを遡り、気が向けば小説の頁を捲っている。青い空は次第に淡くなって、色を世界秩序に乗っ取って紅く変えていく。アイスが溶けて味が変わるクリームソーダのように、徐々に徐々に、夜と記憶の奥へと。
 カフェを出た俺の足は、自然と高円寺線路下にある酒場をふらふらと回っていた。安い酒やカクテルの味も、結局は同じアルコールだ。偶然そこにあった事象が〈過去のあの町〉に繋げているわけじゃない。こんな日は今日だけじゃなかった、気付いてしまったのが今日だっただけだ。ああ、俺という無意識が〈過去のあの町〉へ結びつけている。汚れた路上、慣れた鼻を刺す臭い、暗灰色の、空。酒、酒、酒。酒気。
 酔った足取りは駅の登りホームでふらつく。自身の首を快楽に任せ締めるかの如く、息ができないあの町へ向かおうとする。そう、酔歩する身体は覚えていた。
 例え素敵で平和であるクリームソーダであろうと、
 飲み干せば汚く泡がグラスに残るように。

消失点

 熱気が苛立ちと共に俺を包み、前髪に汗を滴らせた。
 コンクリートの硬さが一々身体に負担をかけて重圧が歩みを遅らせる。しかし、気が遠くなる真夏の残酷とは裏腹に、俺の精神は酷く落ち着いていた。
「ああ、大丈夫だ」
 わかっていた。
 全部わかっている、理解している。熱気なんかで日々の生活はどうにもならないことを。揺るがない。寄生虫と成って「もし駄目だったら」を知ってしまった。重圧と残酷さに滅入ることなんてない。
 ふざけた形をしたビルとビルの隙間に入道雲を見た。
 途切れ途切れに聴こえる蝉時雨。
 そうだ、もう子供じゃない。
 財布に入っている女の金が、怠惰な安心感を俺に与えた。これで生活を続けられる。水道も電気も、携帯もしばらくは大丈夫だろう。駄目なら別の女を作ればいい、この町には腐るほどいるのだから。全てこの町が教えてくれたことだ。
 光明が一転して日陰へと入った。ビル風が微かに吹く。熱気から逃れたかのように、昼の町はいつもより人が少ない気がした。それでも道の端には風俗嬢が缶ビールとツマミを広げ、キャッチらしい男たちは町を見渡している。蜃気楼が遠くで揺れた気がした。年老いた猫背の男が歩みを止めず、熱気にやられながらふらふらと俺の横をすれ違っていく。
「大丈夫だ」
 なんとでもなることを知ってしまった。お人好し他人に余るキャパシティは、俺一人を救うには十分だろう。浅い関係性を手繰り寄せればなんとでもなる日だ。なんとでも、なってしまう。しかし何故だろう、あの遠くに見える、黒い穴は。
 焦りとも不安とも違うモノが遥か先にある。〈大丈夫だ〉わかっていた。真夏の重圧と残酷の正体は熱気などではない。黒い穴の正体はどうしようもならない距離だ。辿り着けない消失点。そこから遥か過去の俺が覗いていることを、知っていた、わかっていた。
 日陰を抜けて、再び起きた光明の一転に目を細める。先の道に日陰は見当たらなかったが、目的地であるコンビニが向こうに見えた。すぐそこにあるはずなのに、随分と遠くにあるような気がした。一歩が重い。
 小さくてくだらない目標を達成する日々が今の人生、そんな言葉が頭を過ぎり消えた。いや、その日々に不安はない。どんなに重たい一歩でも沈みそうになれば前足を出せばいい、それだけだ。一つ一つ掴んで進めばいい、先に。先へ、先へ。なんとでもなってしまう当てのない先へ。
 だからこそ、
「本当に、大丈夫なのか」
 後ろには、もう。

 

冷たく白糸を解かれて

 藍色が色濃く、深く染まる黒髪の夜十一時過ぎ。
 冬の冷たさが終わるべきモノたちを、凍らす前に。
 高層マンションの屋上から、少女が眠る街を見下ろしていた。白く揺らぐ子の朧な光。無人の道を濡らす街頭。夜に襲われて拭えない一室の明かり。街は鼓動するように点々と眩いまま、陽がないことを良いことに眠り続けている。しかし、ファーコートに身を包み眼下を見下ろす少女は、そこへ広がる〈生〉に意識を奪われていなかった。
 フェンスを抜ける白い風はコートの裾を荒々しく揺らす。冷たさ、痛さ。内に篭った熱なんて些細な頼りで、この気温下では寒さだけが絶対的だ。風は止むことを知らず、過ぎ去る時と同じ。少女が屋上に立っているこの一瞬も十代という一瞬も、先に後悔を笑うその一瞬、終わりばかりを考える単純思考の一瞬も。白い風と同じだ。
 時は一瞬で帰らず。過ち。
 諦めることを知らないのは愚か。少女はコートのポケットに入っている無機質な携帯を握って、強くそう思った。叶うと信じている、叶わないと気付かないフリをしているモノたちは、一方通行の呪いにかかっている。もちろん少女の思うソレは過程を見れば正解ではない。少女のソレは結果を見れば正解である。ただ、少なくとも、少女の目に映る街に白んだ夜空には、終わりだけが描かれていた。深く冷たい夜空は、海よりも優しい、暗闇。
 沈みかけてる星空と月に少女は惚けて目を奪われて、優しい気持ちへ誘われる。頑張ることが可哀想だと眼下に同情をし、どうか諦めますようにと目を細め、願った。白い風に身を預けた少女は精神を頭上の宇宙へと投げて、終わるべきモノたちの正しい結末を祈る。粕より軽い浮ついた言葉よりも、手の届く範囲での思考を。微睡んだ後悔をし、己が何者かと知り他人を呪うような時間が、細い少女の視野だけに見えている。夜の街。一歩前へと出て、フェンスを小さな手で掴んだ。柔い五本の指が交差する鉄線によって見えないまま傷つく。
 現状と世界はいつだって人を追い詰めている。手を悴ませた少女は信じてやまない。抗っても無駄。始まりはいつしか終えてしまう、それも残酷に。夢は夢だから夢で、悲劇なほど可愛がられるモノ。だからこそ、だから、こそ。希望を手放し諦めてしまうことは正しいと、眼下の眩い街へ視線を落とし、そして、履き慣れた自身のスニーカーのつま先が少女の目に入ってしまった。
 気付き。
 宇宙より落下する精神は事実を認識する。街への願いは、少女自身の望み。何もかも終わらせたいと、諦めたいと苦悩する身を屋上へ運んだ、街を見下ろす神モドキに過ぎない。しかし真実は、白い風の中で身動きを取ることが出来ない、痛み続ける苺なのだから。
 腐る頃には、食べる頃には、いとしい冬は終わる。
 哀しくも新たな始まりが芽吹く、季節へ。

 

だからとニヒル

 別れて以来、久々に彼と連絡を取った。二年ぶりぐらいに。
『久しぶり、元気だった?』
 なんてことのない彼の返事。私は淡々と返し続けて、固まっていた想いが解れて、どろどろに溶けていくのがわかった。ああ、良かった。電気の消えた十二月の自室は、窓から伸びる眩しい陽射しで明暗に分かれて存在している。伸びた白い脚が温度に触れていて、暗闇の中で床に携帯を持った手を落としている私は、酷く冷えていた。
 どろどろに溶けた想いの中に、まだあの頃の感情が残っていたみたいで。そして露出してしまったそれは、行き場を失っている。彼との他愛のないやり取り。後ろめたさを感じない彼の返事。言葉。態度。ああ。
 私やっぱり、彼に忘れ去られていた。
 彼の中に、私への想いはもう、ない。こうして数年経ってから連絡することは、あの日、別れたあの日に決めたことだった。私を覚えているかの嫌らしい確認。ううん、どうせ忘れっぽい彼のことだから。忘れているだろうと思ったから。だから……決めていたことだったけれど、いざ失ってしまうと、やり場のない暗闇だけが何処か浮いている。自身の価値を疑ってしまったり、過去の否定と解釈してしまったり。縋るように想っていた彼と連絡を取ってしまった私には、〈過ぎたことだから〉と強がることも出来ない。これで良いはずなのに。
 忘れ去られてしまったことは、正解だった。もちろんどうしようもなく哀しいことだけれど、私になんて囚われていても仕方がないことだし、彼にとって私なんて、そんなものでしょう。何より……これで良かったんだ。
 もうあの頃がないことが、どれほど、都合の良いことか。
 何もないってわかっていた方が、気が楽だ。「もしかしたら」なんて考えるだけ意味がないのに、どうしても根底に潜んでしまう。復縁のような希望を持つんじゃなくて、夢を描いてしまうんだ。私の中の明るい未来には彼がいてしまう。理想が彼だけになってしまう。だから。彼の中から私がいなくなることは。だから。彼が忘れっぽいことのついでに私を忘れてしまうことは、都合が良いから。だから。だから。
 窓から射し込む陽射しは、私の元まで伸びるどころか、今はつま先を暖めるだけだった。寒い。冷たい。でも寂しいだなんて想えば、私は壊れてしまう。「都合が良い」とニヒルに微笑んで、大人にならないと。
 誰しもが何かを忘れて、生きている。当然のこと。
 だから。冷たさの中で瞳を枯らす必要、なんて。
 

 

 

 

ni℃
〈 アムネシア 〉

頭蓋骨を叩く音、三日目

 八王子の山奥。暖炉の火が踊る煉瓦の部屋。
 色白で痩せ細った少年、骨くんが本棚の上段に手を伸ばしていた。
 そこへ、後ろに立った黒髪うなじ美人の星さんが僅かな差で本を掴み、骨くんへ渡す。
「……ありがとうございます」
 不服そうに、骨くんが本を受け取って静かに礼を言った。
「私、腕が長めなんだ」
「ふうん。じゃあ、じゃあ、骨のは短めってことで。星さんは立派な〈上肢〉をお持ちみたいで!」
「ええ、怒らないでよう。えっと、その、なに〈ジョウシ〉って」
 拗ねた骨くんを前にして、あまりにも自然過ぎる流れで話は勉強パートへと入っていく。
 今日は骨くんの話。
「ああ、腕の骨のことです。いや腕だけじゃなくて、あのニーナの肩甲骨さんや、鎖骨含めて〈上肢〉と呼びます。だから真っ直ぐ立った人を想像したとき、上肢は片仮名のコの字みたいな……これ、伝わりますか? 〈上肢〉って腕周りなのに意外と範囲が多いって話なんですけど……面白いですか」
「大丈夫だよ。もっと聞かせて、他の骨くんの話」
「今日ずーっと、こんな調子ですよ。全体の骨を六個に大分した〈上肢〉〈下肢〉〈脊椎〉〈骨盤〉〈胸郭〉〈頭蓋骨〉……このそれぞれ簡単に説明する回ですよ」
「いいよ。話したいんでしょ?」
 星さんの自信ある声に、不安そうな骨くんの顔が若干和らぐ。
 日中の暖かさが残っているのか、まるで寒くない日だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて続けます、ね。えっと……〈上肢〉の特徴として、よく回ります」
「回る……ああ、腕をぐるぐる?」
「そうです、ぐるぐるです。手のひらでお餅だって焼けちゃいますよね(伝わりますか?)。筋肉があるとは言え、こんなに自由度が高いのは腕周りぐらいでしょう」
「ほえー。じゃあ、次に自由度が高いのは?」
 骨くんが少し考えて、星さんの言葉に答える。
「次って言うぐらいなので対になるような〈下肢(かし)〉……と言いたいところですが、個人的には〈胸郭(きょうかく)〉を推したいです」
「キョウ……って言うと胸?」
「はい。〈胸郭〉は二十四本の肋骨と、胸骨という小さな骨で主に構成されています。よく見るあのカゴのような形ですね。何故あんな形をしているかと言うと、中に入っている臓器を守るためです。もうザ守るって形をして硬そうですけど、ちゃんと中に入ってる肺に合わせて動くんですよ」
 肋骨を動かすようなジェスチャーに合わせて、暖炉の火によって作られた影が楽しそうに動いた。
「ええ。でもそっか、じゃないと肺が膨らまないもんね」
「そうなんです。肋骨があれだけ曲がってるのには、内に外に動く意味があったからなのです。そして〈下肢〉。これは言わずがな〈骨盤〉を含んだ脚周りを指すんですけど、なんと言ってもその魅力は大きな骨、大腿骨です。とっても大きいです。たぶん成人男性なら大きな方のリコーダーぐらいはあります」
 楽しそうに語るなあ、と星さんが本棚へ体重をかける。
「体重を支えないといけないですからね。だから太くて立派なんです。さらにさらに、その大腿骨などを受け止める〈骨盤〉には、生殖器や泌尿器などの臓器が意外と詰まってるんですよ。その独特なシルエットはまさに骨的。男女で結構な違いがあるのも特徴的だと……あっ、ああ、なんかすみません。一人勝手に語ってきもいですよね……」
「きもくないよ。楽しそうで私は嬉しい限りだよ」
 落ち着いた低いトーンの声と細い目が骨くんを宥めた。
「ほ、本当ですか」
「ほんと。〈脊椎(せきつい)〉の話も聞かせて」
「んん、じゃあ、話します。話させてください。〈脊椎〉は良いですよ。あのゴツゴツで曲線のある形状はとてもエロスがあって。どの動物も決まって美しい。一度KITTEの展示に行くことをお勧めします」
 インターメディアテクは良い。
「う、うんうん。そういえば、いつも〈脊髄〉と〈脊椎〉を間違えちゃう。音的に」
「濁点がない方が骨! って覚えるぐらいしか手がないですね。この〈脊椎〉の特徴は、連なる二十六の骨がつくる曲線と言ったところでしょうか。骨と骨の間には椎間円板(ついかんえんばん)と呼ばれる軟骨がクッションとして挟まっていて、それであの腰のくねらせを可能としています」
「ふうん。ちょっと蛇っぽいかも」
 星さんが春に浮かぶとても長い星座を思い出してそう言った。
「確かに蛇っぽい。ああ、そして、最後になってしまいましたが〈頭蓋骨(とうがいこつ)(解剖学だとそう読むらしい)(頭良さそう)〉。知っての通り頭の骨ですね」
「骨の象徴とも言うべき形をしてるよね」
「ええ。この〈頭蓋骨〉には脳が入っていて、五感のうち四つ『視覚』『聴覚』『嗅覚』『味覚』の役割。さらに食べたり話したり、表情を作ったりなど普通に重要な役割をしています。まさに身体の門番というか。ただ……」
 骨くんが言いにくそうに、少し言葉に詰まる。
「ただ?」
「とっても複雑な形をしているんです。パズルのように二十三の骨が、不動関節と呼ばれる文字通り動かない関節で縫合されているんです」
「へえ。なんかそんな複雑そうな形してないのに、意外」
「すごいんですよ。もう全然覚えられなくて、たぶんこれから勉強するのも最後になるんですよね〈頭蓋骨〉」
「うんうん。ゆっくり勉強しよう。ああ、骨の部位にはたくさんの役目があるんだねえ」
 星さんが拍手をし、一人骨くん語りが終えた時、窓が風に揺れる音がした。
「……そういえば最近、花ちゃん来てないですね」
「骨くんが本名で呼んだときにキレてたじゃない」
「あれのせいなんですか。冬だからじゃないんですか」
 あんなので拗ねるだなんて女の子はわらかない。と骨くんが口を尖らす。
 すぐそこで、舞う花弁に気付くこともなく。

 

 

 

瞬く光、二日目

「ねえ、冬って好き?」
 珈琲が揺らぐ赤いマグカップを持った黒髪ボブの女性……星さんが、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「え、なんですか」
 そんな声に対して『解剖図鑑』を読んでいた細身の少年……骨くんが上ずった声で返事をする。
「ううん、なんでもないよ」
「えっと冬ですよね」
「うん」
「好きですよ。身を感じれるので」
 骨くんのよくわからない返事に「ふふ、なにそれ」と星さんが可笑しそうに笑った。暖炉の火が熱を放ち、煉瓦の部屋を暖め始めている。
「じゃあ、昨日言ってたけど……どうして冬の夜空が綺麗か、知ってる?」
「澄んでるから、とか、空が綺麗だから。とか言いますよね」
 窓の外に広がる夜空を見て、思いつく限りを骨くんが上げた。
「えー。澄んでるって、なあに。空が綺麗って、なにが綺麗?」
 意地悪そうな声がして、一瞬の考える間が生まれる。
「……確かに何もわからないかも、です」
「ふふん。でしょう」
「この場合、星さんに聞くのって良いんですか」
「良いでしょう」
 待ち望んだ展開になったのか、星さんは嬉しそうな顔をして自身が持っていたマグカップを骨くんに渡した。
「まずね、星空が綺麗な理由は一つじゃない。〈冬 夜空 なぜ綺麗〉で検索をかけると、だいたい四つの理由が出てくるの。だからそれを、私が噛み砕いて説明するね」
「はい」
「一つ目。冬の夜空は、きらきらした星が多い」
「オリオン座とか目立ちますよね」
 両手で持ったマグカップに口をつけることもなく、骨くんが答える。
「そうそう。冬の夜空の特性ってのもあるけれど、あの特徴的な三つ星は夏や秋にも見れるんだよ。他にも星で言えばシリウスとか、プロキオンとか。カストルポルックスアルデバラン。……まあ星自体の話は、追い追いね」
「ええ、楽しみにしておきますね。それで、あと三つの理由ですよね」
「うん。二つ目はずばり、残照」
「ざんしょう」
 立ちっぱなしだった星さんが、骨くんの正面のソファに座った。
「残った照らし、と書いて残照ね。つまり陽が沈んでも残っている空の光のこと。夕と夜の隙間。あれがね、夏は遅く沈むから残りがちだけど、冬は早く早く沈むから夜に残らないんだ」
「へえ。じゃあ夏って、あまり夜じゃないんですか」
「んんん、そうね。あまり夜じゃないかも」
「冬は……」
「冬は、結構夜。だから夜は真っ暗なの」
 納得した顔をして骨くんがマグカップを星さんに返そうとするが、彼女は受け取らなかった。
「次、三つ目は乾燥」
「寒いほどって聞きますけど、それですか」
「んー四つ目もそれ“っぽい”んだけど、そう。寒くなって乾燥すると、夜空にかかっている水蒸気みたいのが凍ったり消えたりするんだって。詳しいことはいまいちわからないけれど、霧がかかってるよりは見やすいってことだと思う」
「なるほど。だから寒いほど良いんですね」
 頑なにマグカップを受け取らない星さんに諦めた骨くんが、マグカップに口をつける。
 熱かったのか、すぐに口を離した。
「そういうこと。で、残った四つ目、これは見せ方の話」
「み、見せ方」
「河原とか歩いていて、遠くの光が揺らいでるのを見たことない? あれってね、光の屈折の関係なんだって。風が強いと空気中にある層が揺らいで星が揺れて見えるんだって。あの日、あの海岸での星空はそういうことだったんだ。それから、寒いと圧がかかって、層の密度が高くなって光がぶれぶれするのかもしれないってちくわくんが言ってた」
「……ちょっと話ずれるけど、竹輪って骨がないよね」
「そうだね?」
「うん……」
 再び珈琲を唇の先ですするように骨くんが珈琲を飲んだ。今度は熱さに負けることなく飲めたらしい。
「星の揺らぎ、このことを〈瞬く〉と言うの」
 そう言った星さんの瞳を、ふと骨くんが見ると、冬の夜空も寒さも関係なしに、暖炉の暖かさに包まれたこの部屋で、淀んで綺麗に揺らいでいたように見えた。