kurayami.

暗黒という闇の淵から

あと数歩


 一歩、一歩、と。冷たい深海を目指し、足を動かす。前方に広がる、奥底がない闇は、まるでこの世界と、あちらの世界の境目だ。夜の砂浜を波打つ音は、この暗闇の中、海の音とは思えない。まるで、人の咀嚼音のようだ。俺の行き着く先は地獄だろうか。ああ、そうだろう。自らの命を絶つ時点で、人は地獄に行くと、決められているらしい。
 ……いや、そもそも、天国も地獄もないのかもしれない。俺は少し、死を甘く見ているのかもしれない。
 それでも、今の俺にとって、死は救いだ。
 波が、膝にぶつかった。

 

 奪われる体温。冷たい外気。

 

 誰もいない東京。人生の、出来レース

 

 高校を卒業してすぐ、上京をした。絵描きになって、食っていくことが夢で、バイトをしながら学校に通って、学費と個展代を稼いで、学校を卒業して、個展を何度も開いて、人脈だって築いて……ああ、五年か。
 五年は、頑張ったんだなあ。
 あと少し、才能が足りなかったらしい、センスが、精神が。勝敗の順位なんて最初から決まっていて、駄目だったんだ。俺はこの勝負に、負けた。
 東京には、全てが揃っていて、全てを見れる。だけど、誰一人として味方はいない。そうだ、勝てるわけがない。
 社会も、将来も、借金も、ぜんぶ、ぜんぶ追いかけてくる。
 海面が、うなじを濡らした。後ろを振り返れば、あちらの世界の街頭が遠くに見える。ああ、もう帰らないよ。もう一歩踏み込んだとき、身体が傾き、落ちる。暗くて、冷たい。一瞬海面の向こうに、月明かりが見えた気がする。少し綺麗で、無意識に両手の人差し指と親指で窓を作り覗いたが、そこから見えるのは漆黒だった。息が、口から漏れる。苦しさの中、なにも呪えず、俺は。

 

妖怪三題噺「東京、冷水、レース」

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