仕事に追われ、腕時計との睨めっこの日々。
その日も、いつものように、書類の山を片付け、終電に間に合わず、途方に暮れて、浅草の街を歩いていたとき、一匹の黒猫に出会った。
それが、人としての最後の記憶だ。
現世では、また年が明けたらしい。
「うちの“神社”には、誰も参拝に来ないだろうねえ」
俺の隣で、沙耶華さんが紅い鳥居を見つめて呟く。
「そもそも、現世の人間でこの“神社”を知っているやつもいないだろ」
「わかってるわよ、フミアキぃ冗談が通じないねえ、だから猫に食い殺されるのよ?」
沙耶華さんの言葉を聞いて、睨んだ。
すらりとした身長、細く長い髪、細い狐目、細い顎。その和風美人が、ちゃかすようにその身体を煙のように、揺るがす。
俺たちは、死に損ないの、妖もどきだ。
死を迎え、その魂を“次”に送ることもできず、かと言って、現世で妖に成ることもできない、妖もどきというのが、今の俺だと、この仕事に雇ってくれた男が言っていた。
雇い主は、この“神社”の管理人にして、研究者だ。気味の悪い声をした、気味の悪い男。しかし、そいつが俺らに居場所を与え、仕事を与えてくれる。
妖に殺され、魑魅魍魎の世界に放り出された中で、助けてくれる、恩人だ。
「ねえフミアキぃ、見て見て、あの人から甘酒もらっちゃった、正月意識とかあるんだねえ。ねえ、一緒に飲もうよ」
「……いや、俺は、いいや。飲めないんだよな、甘酒」
沙耶華さんは、妖もどきとしての年数も、生きていた歳月も、この仕事をしてる時間も、俺より長い、正真正銘の先輩。
「じゃあ、私一人で飲んじゃうからね?」
「はいはい」
沙耶華さんが、甘酒を開け、口をつける。俺はその様子を横から見ていた。
喉を動かし、顎をあげて、飲んでいてる。
闇の中の、幽かな美人。
この世界に、時計がなくて良かったと、死んでも良かったと思えるのが、この美人の先輩といるときにいつも思う。
時間に縛られる必要が、ないのだから。
妖怪三題噺「甘酒 時計 美人」
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