読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

kurayami.

暗黒という闇の淵から

夜の海

 二月の役目を終えた月末、三月を迎えた深夜。
 私は何かから逃げるように、早足に家を出た。
 春が近いと油断をして手に取った薄手のコートは、まだ残る冬の気配に適応できそうにはなかった。
 いや、思えばいつだって、この街は冷たい。
 底冷えとした、この街は。

 この街に来て、どれぐらいの時間が経ったのだろう。一体、幾つもの冬を越してきたのだろう。
 まだ二十と数年しか生きていないのに、幾年もの間この街で暮らしている気がする。
 長いと感じるのは、苦痛からか、それとも。
 この街で様々な物語を見てきた。それは光ある物語であり、暗闇の中での物語であり、窓辺にそよ風が吹き、死体が転がるような物語。それらは雨粒のように、無数にこの街に降り注ぎ、物語は等しく終焉を迎える。
 私は横目に、その物語を見てきた。でも、舞台という境界線を降りれば、そこは、誰もが他人で、感情が淘汰された底冷えとした街。
 私は、その街の住人であり役者で、気づいたときにはもう、冷えた物語は始まっていた。
 嫌になる。私だって、もっと感情のある物語を紡ぎたい。明暗に分かれた物語に揉まれたい。
 でも、どう足掻いても、私は平凡で冷たい物語の登場人物の、一人なんだ。

 冷たさから逃げるように、私は街の外れへ向かって歩く。路上では、数多の物語が上映されている。
 それぞれの舞台の上で、感情を持って台詞を吐き、泣く、笑う。そんな姿に憧れる。
 私が今いる場所は、舞台の雰囲気と違い、とても冷たい。
 この街から一度抜け出さないといけない。幾年という時間を破って、この街を出れば、きっとこの物語は完結するんだ。
 街の外れ、私は坂道を登る。様々な物語の台詞が、遠退いていく。心なしか冷たくない、そう感じるのは慣れてしまったのか。
 街の境界線まで、もう少しというところで、息があがって、ふと後ろを振り返る。そこは、私の底冷えとした街の夜景が、全て見渡せた。
 ビルの明かりは海のようにうねりを見せ、魚のように車の明かりが動いている、妖しい航空障害灯は海蛍みたい。それぞれの物語が明かりとなって、暗闇となって、この景色を作っている。
 それがとても綺麗で、私は悲しくなる。舞台はこんなにも整っているのに、なぜ、私の物語は冷たいんだ。
 私が悲観するべきは、舞台ではなくて、私自身なのかもしれない。
 数多の物語の中で、死体のように冷たく動かなかった。その幾多の波に削られ続けた私は、シーグラスのように、私の意思がないんだ。
 私の物語は、まだ、始まってもいない。

 

nina_three_word.

〈シーグラス〉〈底冷え〉〈境界線〉