kurayami.

暗黒という闇の淵から

憧憬

 僕は僕を失っている。
 過去という積み重ねを。履歴という、僕を。
 長い放棄癖の果てに「気付けば」というモノだった。失ってしまったのには理由が幾つかあって、まず第一に自身をどうでもいいと思っていたから。第二に目先の未来への希望に縋っていたから。第三に過去をわざわざ思い返し、懐かしむ必要性がわからなかったからだ。
 思い返そうにも何もかも朧げ。朝に起きて夢を思い出そうとする行為にも似ている。見えてはいるけど掴めない。ああ、記憶なんて些細なきっかけで思い出すと過信していた。しかし、ただ思い返すことを怠っただけで、霧が晴れたようにそこには何もない。人伝に聞く僕の過去はきっと真実なのだろうけど、自分の中に無ければ意味もない気がした。「そんなことがあった」と言い切ることに意味がある気がした。
 そういえば昔、一度だけ住んでいた町を訪れたことがある。小学生の時に何かの都合で転校することになった、その時の町。駅を降りて迷い込んだ先が、なんとなく辿ったことのある道だったような気がして、気がするだけだった。しばくして住んでいた住所に行けたのは良いけど、結局その周りで、遊んだであろう公園で、何も思い出せず、何も感じなくて、得られるモノは何もなかった。他の名残ある町を彷徨ってみても結果は同じ。
 僕の記憶は、僕は、結局何処にも居なかったんだ。
 二十歳から数年経って、やっと気付いた大きな喪失感。
 自身の証明を失った日常の代償。
 寂しさと悔しさ。懐かしいとはどんな感情なのだろう。故郷を恋しいと思ったり、戻ってみたいって気持ちはどんなものだろう。帰る場所があるのは羨ましいかもしれない。人は皆、知らず知らずのうちに帰る場所に安心しているのか。帰れることや、帰る場所があるという〈人並み〉に。そうなると僕は〈人下〉ということになってしまうが、そうなのだろう。ああ、そもそも僕は自身を持って無いのだから話にならない。誇る過去も、成り行きも話せない。僕は誰かだなんて言われて〈ああああ〉なんて言うのも恥ずかしいんだ。自信がない。自身がない。幼少期に好きな食べ物は、なんだったか。僕には初恋というモノがあったのか。思春期にはどんな妄想をしたのか。夢は、あったのだろうか。
 想像からの脚色ならいくらでも出来る。けど、それはとても、虚しいなあ。
 真実ではない、というだけで、ハリボテでしかないと思ってしまう。幕のある舞台と同じだと思ってしまう。
 そしてこれがまた、ないものねだりってわけでもないのが、酷く寂しくて、悔しいんだ。

 

 

 

 


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サウダージ
〈 脚色 〉