kurayami.

暗黒という闇の淵から

カゲロウ

 僕にはフォーカスが合わない。
 そう、普段から思っていた。
 駅は、帰路に急ぐ人々で溢れ返っている。時間にしてまだ平日午後三時。普段夜中に帰る僕は、この時間の帰り道を知らない。ああ、知る由もない。僕は日常のレールからわざと外れ、逃げるようにこの帰り道を進むのだから。
 真夏色。頭上には雲一つない青空が広がっていた。ネクタイを緩め、ただでさえ憂鬱だというのに、暑いという文句が少し漏れそうになってそれを涼風が攫っていく。そう言えば夕方から雨が降るという予報があったが、空を見る限りそれらしき予感はさせない。涼風は不自然なほど都合の良い役に際立っている。だからこそ、頭が余計に冷めて、思考がぐるぐると巡ってしまう。
 会社を仮病で早退したのは、初めてのことだった。
 いや、まだ入社して一年と少し。そのうち起こり得ることが起きただけ。そう、やって、楽観視出来ないのは僕の性分が出ていた。罪悪感と絶望感。そもそも早退へと追い込んだ大元の虚無感は未だに根底に残っていて、僕の内情はそれは酷く歪んで混沌としていた。
 蝉の声と汗は、現実問題を遠くに遠ざけるようで、ただ鬱陶しさに置換している。家へと向かう足取りは速くて重かった。側から見たらわざと焦って歩いているじゃないかってぐらい。誰も、ぼんやりとした僕なんか見てないはずなのに。
 限界が訪れたらしい。窓際から一番遠いデスクで、今まで通りの仕事をこなす時間の中で、ふと視界が暗くなったんだ。向こうから、やってきた。見向きもしなかったのがいけなかったのかな。そんなはず、ないんだけれど。
 ビルとビルの隙間をよこたわる細い道に、捲き上げるような風が僕を向かい入れて包む。目を細めて進むと見晴らしが良くなった。街を分ける大きな河川敷だ。僕の遠回りな帰り道。どこまでも深く続く青空と灰色の街の境界線に藍色の川が流れていて、大きな入道雲がそこにある。
 広がった景色に、泥のような感情が剥がれ落ちるのを感じた。
 溶けるように、暑さを忘れ、早退した事実からの罪悪感が消えていく。重かった身体が軽くなって、次第に残った虚無感だけに支配されて足が自然と河川敷を降り始めた。ぼかしていた正体が露わになっていく。水流の音が近づいて、夏の音が遠くなっていく。
 思考の中を、黒いレースの日傘がくるくると回って、過ぎた。
 忘れものをしてしまったらしい。まだ大人にもなっていない経過の道の中で、もう引き返せないというのに。いつかの夏。何度も悔やみ思い出して。分岐点だったなんて無意味に悔やみながら、今が正解だって認められない。正解を持たない。いつの間にかフォーカスの合わないぼやけた人間になってしまっていた。ああ、この時間は、老いは、成長は。
 気づけば深い草原の海をかき分けるほど進んでいた。すぐそこには水流の気配がして涼しい。見上げると真っ青な空に、黒い蜉蝣の群れが飛んでいた。綺麗だ。コントラスト分ける蜉蝣たちが、まるで夏の穴のようで。
 空っぽの蛹からは、何が羽化するというのだろう。
 僕はいつまでも、見えないまま。

氷菓、酔歩

 日曜午後の高円寺は、暖かさと平凡に溢れていた。高円寺特有のアーケード続きの商店街を各々が求めた店へと向かって人が流れていく。俺だって、その一人で。気怠そうな足が向かう先は路地裏にあるカフェ。飢えに渇いた喉が、甘い炭酸を求めていた。
 そのカフェを見つけたのは先々月のこと。ここに引っ越してもう二年近くになるが、こうして新しいカフェを見つけられるのがこの町の魅力だと思う。独特の空気感を持つこの町だが、呼吸はしやすいんだ。
 そうだ、息ができる。
 ああ。少しずつ、少しずつ、平凡らしさを取り戻せていると思う、思うけれど。
 商店街を一つ外れた路地裏。見過ごしてしまいそうなほど小さな看板を添えた入り口の、細い階段を登った先、アンティーク調の扉の中。古いスピーカーを通しているとわかるような音質で、メロウジャズが聴こえてきた。急ぎ足が一歩を踏み出せば軋む床、脇には敷き詰められた土が、店内を中庭のような演出に仕立てあげている。窓からの明かりを頼りに照らされた店内には、木製の机と椅子と、疎らに客が数人。
 俺は二番目にお気に入りである窓際の席へと座った。一息ついて、体重が深く深く沈む椅子に安心する。窓の外に広がる商店街屋上の低い空は気持ちが良いほど晴天だった。いつからか陽の光を好むようになっていた。いや、求めるようになっていた。周りとの境界線を曖昧にする夜を好んでいた数年前と大違いだ。
 いつからなんて、ナンセンスだ。わかりきっていることだろうに。
 やわらかく纏わりつくモノから逃げ出すように這い出た眠らない町が、頭の奥、蜃気楼のように広がっていた。夜の闇を薄い黄金色が照らすあの町を。一つ思い出せば三つを思い出すように記憶が展開される最中、突然、目の前に提供された冷たい白と透き通る緑に凍らされて、思考すらも奪われる。
 クリームソーダ。ずっと飲みたかった気がする。それこそ、いつからか。底から弾ける気泡、冷たさがグラスに汗をかかせる。恋のように落ち着かない甘さが俺の手の届く範囲にある。しかしそれでも、穏やかで優しい俺だけの時間が、いつの間にか完成されていた。アイスが溢れないようにとストローで中身を吸えば、喉が潤っていく。酔った足取りのような思考も視界も鮮明になって、改めて見渡せば落ち着いたカフェだと再認識する。何度だって安心する。何度だって俺は、二つの町を比べていた。
 何度も? いや、まさか。
 カフェの中、二番目にお気に入りの席で過ぎていく時間。携帯を触って、呟かれるタイムラインを遡り、気が向けば小説の頁を捲っている。青い空は次第に淡くなって、色を世界秩序に乗っ取って紅く変えていく。アイスが溶けて味が変わるクリームソーダのように、徐々に徐々に、夜と記憶の奥へと。
 カフェを出た俺の足は、自然と高円寺線路下にある酒場をふらふらと回っていた。安い酒やカクテルの味も、結局は同じアルコールだ。偶然そこにあった事象が〈過去のあの町〉に繋げているわけじゃない。こんな日は今日だけじゃなかった、気付いてしまったのが今日だっただけだ。ああ、俺という無意識が〈過去のあの町〉へ結びつけている。汚れた路上、慣れた鼻を刺す臭い、暗灰色の、空。酒、酒、酒。酒気。
 酔った足取りは駅の登りホームでふらつく。自身の首を快楽に任せ締めるかの如く、息ができないあの町へ向かおうとする。そう、酔歩する身体は覚えていた。
 例え素敵で平和であるクリームソーダであろうと、
 飲み干せば汚く泡がグラスに残るように。