荒野の中、土埃を立て、俺はバイクを走らせていた。風で俺の白衣がなびいて、汚れる。そんなことは、自由の疾走に比べたら軽いものだった。
後ろで、彼女が腰に回した手に力を込めた。深いローブで顔は見えない。俺は、片手で、その鱗に覆われた手を撫でた。
大きな戦争が始まってすぐ、予定されていたようにその実験施設は作られた。
アジア国公認研究施設、アヤツジ研究所。
人体強化を目的に、奴隷、囚人、孤児に人体実験をする施設だ。眼科や、耳鼻科、歯科などと、分かれていて、例えば、眼科なら眼球及び視界の強化実験。耳鼻科なら聴力の強化実験。歯科なら……まあ顎の力や、特殊な歯を作ったりとかだ。特にやばいのは、脳精神外科。あそこは実験の仕方も、失敗の仕方も、えぐいと聞く。
学院を出て、俺が配属されたのは、皮膚科の研究員助手だった。人を使った拷問じみた研究に、最初のうちは毎晩嘔吐していたが、次第にその感覚は麻痺し、俺は、実験対象を人間として見なくなった。
所属され二年、成果を上げていった俺は、ついにプロジェクトを任された。
魚類のデータを元に、人間の皮膚を鱗にし、頑丈さと、水中での動きを活発にする実験。
初めて実験を任されたと俺は喜び、改めて資料を見直す。
実験対象は、囚人。十九の少女だった。
俺は、そのときの感情を、覚えていない。
手術を終えた少女は、自分の身体をまじまじと見て、一言呟いた。
「なんか、思ってたのと違う」
お伽話に出てくるような、人魚の姿を想像していたのだろうか。ショックというよりは、不機嫌そうだった。
「今日からのお前の名前なんだけど……うーん、蝶鮫。うん、蝶鮫だ」
実験対象への名前は、実験責任者が付ける決まりになっている。俺は材料に使った中にいた、チョウザメから名前を取った。
チョウザメは、蝶のような形の鱗を持つサメで、実際“蝶鮫”の鱗は、実際のチョウザメよりは大きな蝶の形をしている。
「ちょうざめ……可愛くない……」
生意気な小娘だった。
“蝶鮫”が手術台から降り、改めて鏡の前に立つ。
「……あれ?」
自身の顔をぺたぺた触っている。
「てっきり、顔も改造されると、思ったんだけど」
「あぁ、うっかりし忘れちゃったな」
好みの顔だったからだ。この事は後々、上からかなり怒られ、今回の実験第一結果の点数に、大きく響いた。
“蝶鮫”は、どんな実験でも、意欲的に協力してくれた。
皮膚の頑丈さを試すような、残酷な実験でも、文句を言いながらも拒むことは一切なく、周りの研究員からすれば、よく懐いていると、俺自身への評価が上がっていく。
プールを使った水中実験では、彼女は特に活き活きとしていた。
どうやら泳ぐのが楽しいらしい。
「ねえ、クラサキ博士は泳がないの?」
「俺が一緒に泳いだら、誰が記録するんだよ」
「いいじゃん、さぼっても」
“蝶鮫”が楽しそうに、泳ぎながら言った。その笑顔を見て、顔を変えなくて良かったと、改めて思う。
その感情は火種になり、次第に大きくなった。
政府が実験に見切りをつけ、馬鹿でかいミサイルで施設を消すと、通達が来た。研究員は別施設に非難しろという。馬鹿らしい、どうせ研究員も口封じに殺されるんだ。そうに、決まっている。
そう決まったことに、俺は、怖くなり、死を考え、側にいてほしい人を、自然と考え、一つの決断に、たどり着いた。
その日、俺は研究員の消えた研究施設に入り込み、彼女の部屋を訪ね、全てを伝える。
さすがの彼女も泣きそうな顔をして、俺はまるで説得するように、抱き寄せた。
施設にあったバイクを使い、俺は彼女を外に連れ出す。
数分後に、背後で爆風を感じて。
走りきったバイクは海沿いで、パンクし、動かなくなった。
「海まで歩きたい」
彼女の要望に応えて、俺らは海まで歩いた。午後の優しい潮風が、彼女の髪をなびかせている。
少し濁った海に、彼女は不満を漏らしながらも、波と戯れている。
もしかしたらすぐそこまで追っ手が来てるかもしれないのに、呑気なものだ。
「ねえ、一緒に泳ごうよ」
「いや、俺泳げないんだけど」
俺の言葉を無視して、彼女は腕を引っ張り、海へと誘う。
膝に波が当たる。海は初めてだ。
「心配?」
彼女が、振り向かず、腕を引っ張りながら俺に聞いた。
「少し」
「怖い?」
「怖いな」
「私も」
いつの間にか、半身が海に浸かっている。
「でも、博士と一緒なら怖くないよ」
「……ああ、そう思ってお前を連れ出したんだ」
嬉しいと笑った“蝶鮫”の鱗に覆われた腕が、俺の首に回り、
優しく、海の底へと、誘われた。
妖怪三題噺「鱗 タイヤ プール」
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