kurayami.

暗黒という闇の淵から

ヴァージンガール

 さくらんぼの茎を指で摘んで、対になったうちの一つの実を口の中へ、私は招いた。少し、甘酸っぱい。
 浅田くんが学校を休んだから、今日は一人でお弁当を食べているの。春風邪を引いたらしい、可哀想に、帰りに寄ってあげないと。
 赤く小ぶりな実、残ったもう片方の実を、私は咥えた。
 さくらんぼの花言葉は……〈幼い心〉〈上品〉。
 英語で言うところの、チェリーは〈処女〉を意味する。

 一ヶ月前、浅田くんの家に、遊びに行ったとき。彼は私を押し倒してきた。彼と私にとって、初めてになる瞬間。私は、彼を止めた。
「ねえ、結婚するまでしないっていうのは、どうかしら」
 優しい優しい彼は、とっても苦しそう顔をした。そうよね、私みたいに可愛い女の子を犯せるまで、あと一歩ってところで、辛いね。
「二人にとって記念すべき瞬間だから、大切にしたいの」
 私は彼の目を見て、微笑みながらそう言った。
 苦しそうに、悲しそうにする彼。その耳元で、私は「絶対気持ちいいよ」と囁いた。
 彼は、黙って、頷き、笑い返す。約束は、成立された。
 その行動が、在り方が、私にとっての美徳だ。
 この先、どんだけ果てしなく長い時間、彼の理性と性欲の苦しみだなんて、私にはわからない、知らない。私は、私の美徳を通すだけ。今この瞬間に、全てを任すだなんて、愚か。もっと、もっと〈物語〉の中に私は生きたい。

 それに、我慢すれば、するだけ気持ちがいいものよ。

 それから、優しい浅田くんは、ずっと、言いつけを守ってくれた。高校二年のクリスマスも。高校三年の秋にしたお泊まり会の日も。きっと、ずっとずっと苦しい想いをしていたと思う。その苦しそうな姿すら、愛おしい、私の美徳。

 春夏秋冬を繰り返せど、約束は徐々に冷えていく。

 二十四歳になったとき、浅田くんはいつの間にかいなくなってたの。ううん、もっと前からいなくなっていたかもしれない。ただただ、約束が、美徳が、長い時間、苦しみと共に冷凍保存されて、そのまま。
 約束をした対の内、片方が欠けてしまった。この場合どうなるのかしら。もう、約束は、約束じゃないのかしら。
 渋谷のスクランブル交差点なんかを歩くとき、今でも浅田くんを探すの。無理させちゃったのかなって、苦しい思いさせちゃったかなって、美徳を通す代わりに、何か御褒美をもっとあげるべきだったんじゃないかって。
 そうは、思う。そうは思うけど。
 悩んでは、消えていく。
 この雑踏が、雑踏の価値観が、私の冷たく凍った美徳を、溶かしていく。

 

nina_three_word.

〈冷凍〉〈さくらんぼ〉〈美徳〉〈雑踏〉