早朝四時。まだ夜の真ん中のような暗さの、春の下。
私は先輩の結婚が出来ないという、愚痴と酒に延々と付き合わされ、やっと、やっと解放された。
しかし、始発も出ていないこの時間の自由は、不自由に近い。彼の待つ家に辿り着くには、三十分後の始発に乗らなければいけなかった。たった一駅分、歩くぐらいなら、待ちぼうけをして始発に乗りたい。
どう時間を潰そうかと考え、駅前のコンビニに入り、煙草を買う。青くてキラキラした煙草。年齢確認をされ、まだまだいけるななんて無駄な優越感に浸りながら、財布の中で免許証を探した。
ふと、テレホンカードが目に入った。ペンギンがプリントされたカード、これは、そうか、あれだ。
コンビニを出た私はテレホンカードを引っ張り出し、裏を見る。そこには心配性な彼の電話番号が書かれていた。都合よく交番の前にあった電話ボックスに入り、私は緑色の公衆電話にテレホンカードを差し込んだ。オレンジ色の液晶に〈27〉と表示される。携帯を取り出し、彼の電話番号を慣れないリズムで押す。
コール音が数回響いて、軽いノイズ混じりの彼の声。
『はい、もしもし』
携帯に登録されてない番号だからか、他人行儀な彼が新鮮だ。
「私、上井さん、上井さんだよ」
『上井さん。どうしたの? 携帯の充電切れた?』
「ううん。いや、ほら、前に倉渕くん、私にペンギンのテレホンカードくれたの覚えてる?」
『ああ、うん』
「使ってみたくなって」
『うん。……え? あ、うん、なるほど』
自分で言ってみて、彼と同じような気持ちになった。それだけか、と。
『愚痴の付き合いは終わったの?』
「終わった終わった、さっきタクシーで送還したよ」
『ああ、お疲れさま。そっか、始発まだないんだ。歩いては帰らない?』
「うん。眠い?」
『ううん、今さっきゲームが一区切りついて、上井さんが帰ってくるまで起きてようと思ってたとこ』
私が口に出さなかったことに、遠回しに「大丈夫だよ」と彼は言ってくれた。
「そかそか、ありがとうね」
『構わないよ。ところで外はまだ暗いけど大丈夫?』
「交番の前の公衆電話使ってるから大丈夫だよ」
『それなら安心だ』
受話器の向こうで、彼の声が安堵から少し柔らかくなった。きっと、この違いがわかるのは私ぐらいだ。
「ねえ、ねえ、公衆電話から電話というのもいいものだよ」
『うん、うん、あの狭さがいいよね』
狭い、か。人の声を聞くためだけに隔離されたこの空間は、狭いのだろうか。むしろ、丁度が良いから、私はこの空間が落ち着く。狭いと見るのは、彼の人柄が出てるなあと、私は思った。
『それ、音量調整できるんだよ』
「あっ本当だ」
後ろ向きなくせして、欲深く、重いのが彼、倉渕春紀くんだ。
『上井さん、好きだよ』
そして付き合って半年経っても、こうしてよくわからないタイミングで私に想いを伝える。正直だ。
「うん、私も倉渕くん好きだよ」
私は、指に電話のコードを絡ませた。
「有線って、素敵だね。繋がり、みたいな」
『運命の赤い糸みたいな』
「それだと、少し、心細いなあ」
『なら、臍の緒なんてどうかな』
「確かに……太いけども」
『うーん、お互いの臍に、繋がってるんだ』
「どっちがどっちに注いでるの?」
『一方通行である必要はないよ。お互いが、お互いから得て、奪ってる』
彼が淡々と言う、得て奪うという言葉が、少し怖くて、刺激的で惹かれた。実際、私たちはそうだ。得て、奪い、繋がりで離れない、離れられない。
電話ボックスのガラス越しに、夜が、朝の景色に変わっていく様が見える。春の早朝は、私の肌を鳥にする。
「ん……ねえ、夜が明けてきたよ」
『だね、明るくなって』
ブツッと、通話が切れた。話すのに夢中で、残数を確認していなかった。役目を終えたテレホンカードが、出てくる。
もし、臍の緒で繋がっていたとしても、こんな、ふとしたときの寂しさは、どうにもならないなあと、私は胸の中で携帯を握る。
なんだか、携帯から掛け直してはいけない気がした。切れるべきして切れたと私は思って、電話ボックスを出る。
「ちょうど、切れちゃったね」
ノイズのない声が、横から聞こえ振り返る。
私のカーディガンを片手にかけた彼が、寝不足の顔をして立っている。
始発の動く時間、私は不安定な繋がりを、また信じてしまった。
nina_three_word.
〈臍の緒〉〈電話ボックス〉〈始発〉