彼の家に帰るとき、わざと音を立てず、ただいまを言わずに帰る時がある。
意地悪なんかじゃない。私がいないときの彼の姿が見てみたくて、仕方が無く音を消してみてるだけ。
玄関の戸を静かにゆっくりと閉めて、忍び足で廊下を進み、彼がいるであろう寝室を覗き込む。
彼は……ベッドに腰をかけて、携帯電話の角を指でなぞっていた。
その携帯電話は特別製。私しか連絡先を知らない携帯電話。私としか連絡が取れない携帯電話。
ずっと、私からの連絡を待っていたんだね。可愛い。
また音を立てずに、彼に近付く。一歩、二歩、三歩。大きな歩幅で。
彼の顔が、目の前にある。
「ただいま」
「わ、ああ、おかえり。おかえりなさい」
彼がきょろきょろと驚いて、朧げであろう私を見つけて微笑んだ。
その霞んだ黒目を、盲目手前を細めて。
「ごめんね、驚かせて」
私は笑みを含んだ言葉を隠せないまま、謝った。
「驚きましたよ。連絡が無かったのは、そういうことですか?」
連絡? ああ、なるほど。一瞬何のことだろう思ったけど、理解する。
帰りが遅くなるとき、九時以降になるときは、彼に連絡すると約束していた。
「んーまだ八時だよ」
「あ、れ、まだそんな時間でしたか……なんだか今日は時間がゆっくりですね。すっかり体内時計を身につけたものだと思っていましたが、まだまだです」
照れ隠しなのか、彼が多めに喋る。どうしたのだろう、今日はとても寂しがり屋らしい。
そんな弱々しい彼にご褒美とでも言うように、本当は自身へのご褒美のために、優しく抱きしめた。
ああ、彼は、私がいないとこの家から出られない。
私がいなければ満足に食事も取れない。
私だけを認識して、私だけを待つ日々。
とても、可哀想で可愛い。私だけの彼。
空っぽを、満たせる。
彼が私の身体を深く触ろうとしたから、静かに離れる。
「ご飯、作ってくるよ」
“お楽しみ”は後に取っておこうね。
彼が申し訳なさそうに笑うのを見て、私は台所へと向かおうとする。
「あの」
「ん、なあに」
何か言いたげな声に足を止めた。
「煙草、別に家でも吸っていいんですよ」
彼の言葉に、私は驚き、動揺する。
煙草が嫌いな彼に気付かれないように、心掛けていたはずだった。
「匂い、した?」
「ええ。今朝に一本と言ったところでしょうか」
確信を持った彼の声は、何処か裏切られたと落ち込んでるようにも聞こえる。
「ううん、職場で喫煙する先輩のせいかな。煙草吸ってる前でガミガミ怒られちゃって」
平気で嘘をついた。もし顔を鮮明に見られたら、お終いの表情をしていたと思う。
「そう、ですか。いえ、変なこと言ってすみません」
納得してそうで、納得していない彼が俯いた。
ああ、きっと、彼にとっては、嘘か真実かが重要なのに。また、嘘をついてしまった。その霞んだ目を良いことに。
嘘つきで、強がりな私。本当は、彼がいないと生きていけない私。彼という存在を抜いてしまえば、空っぽで中身の無い私。
そんな実のない粃のような私を、彼は愛して必要として満たす。
目に霞む朧を信じるなんて、無様。
だから、だからと言い訳をして、私は今日も明日も、彼を生かすんだ。
nina_three_word.
〈 朧 〉
〈 粃 〉