「ねえ、この時間だった気がするの」
夕暮れが終わろうとする夜の間際。街を分ける河川の橋の上。
女が橋の柵に寄りかかって、手を繋いだ先の男にそう言った。
「この時間?」
「私が、貴方の側に居れることを許された時。今みたいな夜の入り口」
遠い……三年も昔の事に、男が「そうだね」と笑う。
「僕らはまだ制服を着て、大人に縛られていたっけ」
「そうね。あの頃は、私は今より泣き虫で、可愛らしい虚弱な生き物だった」
河川の流れる音、偶に走る車の音とは別に、女の声は小さくはっきりと男に届いていた。
「あの時も貴女は泣いていたよね」
「ええ、確かじゃない幸せを……崩れやすい幸せをわかっていながらも、貴方に望んで求めていたから」
「そんな怯える繊細な貴女を、僕は欲望を抑えられないまま攫ってしまった」
橋の柵に男が両手を伸ばし、思い出すように河川を覗き込む。
「僕の元へ来て、後悔してる?」
「……貴方がさせてないわ」
女が困った顔をして言って、男は安心して目を閉じた。
「でも、これから先はまだ、不安」
「不安。例えば、何が不安かな」
「例えば、私がいない、貴方の世界」
笑みをこぼしながらそう言った女は、表情を微かに曇らせた。
例えばも何も、それだけが女にとっての恐怖の全てとでも、言うかのように。
そんな女を見て、男がポケットに手を入れる。
「そっか。ん、わかった」
女が男の言葉に疑問を持ち顔を上げると、男が携帯電話を躊躇わず河川に投げ捨てた。
「なんてことのない。貴女と僕しかいない世界、それだけにすればいい」
川に落としていた視線を、女に男が向けてそう言った。
「それは……でも、そんなの、駄目」
あまりにも我儘。そう言葉を繋げる前に、女が涙を流す。
「大丈夫。このまま橋を渡って、どこか遠くの街に行こう。名前なんかも変えて、僕らを知る人がいない街へ」
「そしたら、それだけで、二人だけの世界になるっていうの」
「なるよ。一人と一人で行くんじゃない。二人で行って欠けないように、水の底で暮らすように、ね」
へらっと言って笑う男に、女もつられて笑った。
「ふふ、ねえ、まるでシーラカンスみたいね。私たちこの数億年前の街から消えても、何処か知らない現代でひっそりと生き続けるだなんて。夢みたい」
「夢でも、ずっと側にいれるならいいよ。そうなれば僕らは、数億年はずっと一緒だ」
そう言って男は女の手を引き、橋の向こう側へと歩いていく。
恋人たちの想いは、誰にも知らなれない街で、死の先、崩れやすい幸せの中で、朽ちないと信じている。
一人と一人の過去を捨て、二人の半永久的数億年の未来を。
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〈 シーラカンス 〉