参ったな。これは、どうしたことか。
さっきまで、さっきまで私は……ああ、そうだ。私は職員室で、明日の実験を含めた授業の準備を終えたばかりだった。
午後八時のことだ。ついでに、桐山に「その、浅川さん……すみません」なんて、反省した犬みたいな調子で頼まれたから、あいつのクラスの準備もしてやった。後輩の頼みだからな、断れん。
そう、さっきまで、一歩前まで、私は勤めている学校にいた。
それがどうだ、今じゃどうした。
鳥肌が立つほどの湿った空気。遥か遠くから響く風のうねり声。心の不安を煽るような不気味な松明の灯り。長く続く、苔の生えた赤煉瓦の通路。
なんだここは。私は、何処に来てしまったのだ。
私は恐る恐る、足元にある苔を踏み躙った。少しぬめり気と弾力のある苔が、靴底をを通して伝わる。
どうやら、この悪夢のような状況は現実らしい。
私は一歩一歩、足を前に踏み出して行く。不規則に並んだ松明の灯りが、前方の暗闇を照らしていた。
帰りたい、恐ろしい。そう言った感情を踏まえて、ここが何処だか知りたかった。この場所がどこかわかれば、恐怖を拭え、帰路が明確になるかもしれないからだ。
しかし、窓も空もない。わかるのは前方と後方に道が続いてるだけ。
これはまさか、迷った罰なのか。
足を踏み出して行く中で、通路の形に変化が起きた。道が二つに分かれている。勿論、どちらがどこに繋がっているかだなんて、親切なことは書かれていない。
私は少し迷って、左の道を選んだ。左利きだからだ。
そうだ、妻はいつも、私を考慮して右側に寄り添ってくれていた。
また分かれ道。迷い、迷って私は、右を選ぶ。
まるで迷宮みたいに道は何度も分かれた。行き先がわからない分かれ道にぶつかるたびに、私は酷く迷った。
あの時のように。
夫として、何となくわかっていた。その日のうちに妻が病気で死ぬと、長年連れ添った妻の衰弱ぶりに、頭のどこかで確実に理解していた。しかし、教師として、大人として。私はその日、教鞭をいつものよう執っていた。
朝礼から昼まで、ずっと迷っていた。今帰っても間に合うんじゃないかと、やっぱり来るべきではなかったのではないかと。
こんな男の末路は決まっていて、妻の死に目に、結局間に合わなかった。
ふと、足元を見ると、最初に踏み躙った苔がそこにあった。どうやら戻ってきてしまったらしい。
私は呆れて笑ってしまう。迷ってこれじゃあ、救われんな。
誰かが〈先生〉は「先に生きる人と書いて、先生」と書くと言っていた。ああ、先に生きる者が迷っていては、教師は務まらないだろう。
ふと松明を見ると、火が風に瞬いて消えていった。どうやら迷っている暇は無いらしい。
私は出口に辿り着くため、この罰の迷宮の中をひたすら突き進むことにした。
迷うことを、棄てて。
nina_three_word.
〈 先生 〉
〈 迷宮 〉
〈 瞬く 〉