kurayami.

暗黒という闇の淵から

トリコシチュー

「立川にさ、美味しい定食屋があるって聞いたんだけど」
 大学の講義が終わったその日のこと、奥村は学友の中上との夕食を、何処で取るか悩んでいた。
「立川か、地味に遠いな」
 奥村が、少し面倒くさそうな顔をした。
「いや、それがリピーターが多いんだって。売りはシチューだとか」
「ふうん、珍しい」
「な、な、行こうぜ?」
「行きたいって素直に言えばいいのに。いいよ、じゃあ今日はそこで」
 中上の押しに負け、奥村は立川にある定食屋に決めた。

 大学の最寄り駅から、中央線で数駅。奥村と中上は立川駅で降りた。
 噂の定食屋は、南口のラブホ街の近くにあるという。夕暮れ時になり、立川駅の改札前には雑踏が出来ていた。
「立川に来たことは?」
 中上が奥村に聞く。
「ああ、実は高校のとき乗り換えに使ってたよ。だから、むしろ詳しいぐらいだ」
「へえ、でもラブホ街の方なんて行ったことないだろう?」
「それが、そこに美味しいラーメン屋があってな。高校のときはよく通ったもんだよ。ラブホ街」
「ませてんなあ」
 階段を降り、キャッチに溢れたゲーセン前の通りを歩き、駅前から外れ、人の気配が薄れていく。
 二人が歩いていくうちに、いつの間にかラブホ街に入っていた。
「ああ、例のラーメン屋の方は店仕舞いしたみたいだな」
「まじか。最悪見つからなかったら、そこにしようと思ったのに」
 赤鬼の顔の形をした、巨大遊具が置いてある公園の角を曲がる。
「あった」
 看板もないその店は、線路沿いにあった。
「こんな店あったかな」
 奥村が首を傾げた。
「お、中はそんな混んでないみたいだ。入ろうぜ」
 中上が、率先して店の中に入る。
 店内は和風居酒屋に近い雰囲気で少し薄暗く、エル字にカウンターがある。
「いらっしゃいませ」
 エプロンを腰に巻いた、若い女性が出迎える。二人は席に通され、奥村がひそひそと中上に話しかける。
「あの人、一人しかいないみたいだけど、あの人が作るのかな」
「さあな。というか、すげえ可愛くね?」
 中上はすっかり、店の雰囲気に魅了されていた。
「ご注文は如何なされますか?」
「ホワイトシチューを二つください」
「待った」
 中上の注文を奥村が止めた。
「なんだよ」
「ビーフシチューってありますか?」
「すみません……シチューはホワイトのみとなっているんです……」
「ああ、じゃあ、ホワイトシチューと、この唐揚げ定食でお願いします」
 奥村が申し訳なさそうに注文した。
「悪いな、俺、ホワイトはだめなんだ」
「いや、来たいって言ったのは俺だしさ。いいよいいよ」
 中上はシチューを楽しみにしてる様子だった。
 数分後、唐揚げ定食と、ホワイトシチューが二人の前に出される。
 唐揚げ定食には、特に目立った特徴はなかった。が、ホワイトシチューは少し、異質だった。
「具がない……?」
 二人が覗き込むが、やはり具は見当たらない。
「そういうのが売りってことかな」
「だろうな。これでリピーター続出って言うんだから、楽しみだぜ」
 それぞれ、口に運ぶ。
「うん、まあ、美味しいかな」
 奥村が、思ってもいないことを口にし、中上はどうかと横目で見る。
 すると、中上が、ぼろぼろと、泣いていた。
「どうした、そんなにか……?」
「美味しい」
 中上が、感情を込めて、ぽつりと、呟いた。

 それからというもの、中上は毎日のように、その店に通った。
「そんなにか?」
「……ああ、最高だよ。うん、最高なんだ」
 中上は、目を細めて言う。
「お前、最近少し痩せたんじゃないか……?」
 奥村が中上を心配するが、それを無視して中上は語る。
「口の中でとろけたと思うと、喉を通してもいないのに、身体に浸透していくんだ。なんだか、全て許されるような、肯定してもらうよな優しさでな。あの味から、いや、味だけなんだ。あの味が俺を救い、教えてくれる。日々をこうして生きるべきだって教えてくれる。それはあの店に通うことが正しいと、教えてくれるんだ。毎日、あの味に触れ合わないといけないんだ」
 ぶつぶつと語る中上は、まるで信者のようだった。
「宗教みたいだな……」
 奥村は、自身が乳製品アレルギーであることを、何処かで安心した。

 

nina_three_word.

〈「宗教みたい」を含んだ台詞〉

ヴァージンガール

 さくらんぼの茎を指で摘んで、対になったうちの一つの実を口の中へ、私は招いた。少し、甘酸っぱい。
 浅田くんが学校を休んだから、今日は一人でお弁当を食べているの。春風邪を引いたらしい、可哀想に、帰りに寄ってあげないと。
 赤く小ぶりな実、残ったもう片方の実を、私は咥えた。
 さくらんぼの花言葉は……〈幼い心〉〈上品〉。
 英語で言うところの、チェリーは〈処女〉を意味する。

 一ヶ月前、浅田くんの家に、遊びに行ったとき。彼は私を押し倒してきた。彼と私にとって、初めてになる瞬間。私は、彼を止めた。
「ねえ、結婚するまでしないっていうのは、どうかしら」
 優しい優しい彼は、とっても苦しそう顔をした。そうよね、私みたいに可愛い女の子を犯せるまで、あと一歩ってところで、辛いね。
「二人にとって記念すべき瞬間だから、大切にしたいの」
 私は彼の目を見て、微笑みながらそう言った。
 苦しそうに、悲しそうにする彼。その耳元で、私は「絶対気持ちいいよ」と囁いた。
 彼は、黙って、頷き、笑い返す。約束は、成立された。
 その行動が、在り方が、私にとっての美徳だ。
 この先、どんだけ果てしなく長い時間、彼の理性と性欲の苦しみだなんて、私にはわからない、知らない。私は、私の美徳を通すだけ。今この瞬間に、全てを任すだなんて、愚か。もっと、もっと〈物語〉の中に私は生きたい。

 それに、我慢すれば、するだけ気持ちがいいものよ。

 それから、優しい浅田くんは、ずっと、言いつけを守ってくれた。高校二年のクリスマスも。高校三年の秋にしたお泊まり会の日も。きっと、ずっとずっと苦しい想いをしていたと思う。その苦しそうな姿すら、愛おしい、私の美徳。

 春夏秋冬を繰り返せど、約束は徐々に冷えていく。

 二十四歳になったとき、浅田くんはいつの間にかいなくなってたの。ううん、もっと前からいなくなっていたかもしれない。ただただ、約束が、美徳が、長い時間、苦しみと共に冷凍保存されて、そのまま。
 約束をした対の内、片方が欠けてしまった。この場合どうなるのかしら。もう、約束は、約束じゃないのかしら。
 渋谷のスクランブル交差点なんかを歩くとき、今でも浅田くんを探すの。無理させちゃったのかなって、苦しい思いさせちゃったかなって、美徳を通す代わりに、何か御褒美をもっとあげるべきだったんじゃないかって。
 そうは、思う。そうは思うけど。
 悩んでは、消えていく。
 この雑踏が、雑踏の価値観が、私の冷たく凍った美徳を、溶かしていく。

 

nina_three_word.

〈冷凍〉〈さくらんぼ〉〈美徳〉〈雑踏〉

有線ヘソノヲ

 早朝四時。まだ夜の真ん中のような暗さの、春の下。
 私は先輩の結婚が出来ないという、愚痴と酒に延々と付き合わされ、やっと、やっと解放された。
 しかし、始発も出ていないこの時間の自由は、不自由に近い。彼の待つ家に辿り着くには、三十分後の始発に乗らなければいけなかった。たった一駅分、歩くぐらいなら、待ちぼうけをして始発に乗りたい。
 どう時間を潰そうかと考え、駅前のコンビニに入り、煙草を買う。青くてキラキラした煙草。年齢確認をされ、まだまだいけるななんて無駄な優越感に浸りながら、財布の中で免許証を探した。
 ふと、テレホンカードが目に入った。ペンギンがプリントされたカード、これは、そうか、あれだ。
 コンビニを出た私はテレホンカードを引っ張り出し、裏を見る。そこには心配性な彼の電話番号が書かれていた。都合よく交番の前にあった電話ボックスに入り、私は緑色の公衆電話にテレホンカードを差し込んだ。オレンジ色の液晶に〈27〉と表示される。携帯を取り出し、彼の電話番号を慣れないリズムで押す。
 コール音が数回響いて、軽いノイズ混じりの彼の声。
『はい、もしもし』
 携帯に登録されてない番号だからか、他人行儀な彼が新鮮だ。
「私、上井さん、上井さんだよ」
『上井さん。どうしたの? 携帯の充電切れた?』
「ううん。いや、ほら、前に倉渕くん、私にペンギンのテレホンカードくれたの覚えてる?」
『ああ、うん』
「使ってみたくなって」
『うん。……え? あ、うん、なるほど』
 自分で言ってみて、彼と同じような気持ちになった。それだけか、と。
『愚痴の付き合いは終わったの?』
「終わった終わった、さっきタクシーで送還したよ」
『ああ、お疲れさま。そっか、始発まだないんだ。歩いては帰らない?』
「うん。眠い?」
『ううん、今さっきゲームが一区切りついて、上井さんが帰ってくるまで起きてようと思ってたとこ』
 私が口に出さなかったことに、遠回しに「大丈夫だよ」と彼は言ってくれた。
「そかそか、ありがとうね」
『構わないよ。ところで外はまだ暗いけど大丈夫?』
「交番の前の公衆電話使ってるから大丈夫だよ」
『それなら安心だ』
 受話器の向こうで、彼の声が安堵から少し柔らかくなった。きっと、この違いがわかるのは私ぐらいだ。
「ねえ、ねえ、公衆電話から電話というのもいいものだよ」
『うん、うん、あの狭さがいいよね』
 狭い、か。人の声を聞くためだけに隔離されたこの空間は、狭いのだろうか。むしろ、丁度が良いから、私はこの空間が落ち着く。狭いと見るのは、彼の人柄が出てるなあと、私は思った。
『それ、音量調整できるんだよ』
「あっ本当だ」
 後ろ向きなくせして、欲深く、重いのが彼、倉渕春紀くんだ。
『上井さん、好きだよ』
 そして付き合って半年経っても、こうしてよくわからないタイミングで私に想いを伝える。正直だ。
「うん、私も倉渕くん好きだよ」
 私は、指に電話のコードを絡ませた。
「有線って、素敵だね。繋がり、みたいな」
『運命の赤い糸みたいな』
「それだと、少し、心細いなあ」
『なら、臍の緒なんてどうかな』
「確かに……太いけども」
『うーん、お互いの臍に、繋がってるんだ』
どっちがどっちに注いでるの?」
『一方通行である必要はないよ。お互いが、お互いから得て、奪ってる』
 彼が淡々と言う、得て奪うという言葉が、少し怖くて、刺激的で惹かれた。実際、私たちはそうだ。得て、奪い、繋がりで離れない、離れられない。
 電話ボックスのガラス越しに、夜が、朝の景色に変わっていく様が見える。春の早朝は、私の肌を鳥にする。
「ん……ねえ、夜が明けてきたよ」
『だね、明るくなって』
 ブツッと、通話が切れた。話すのに夢中で、残数を確認していなかった。役目を終えたテレホンカードが、出てくる。
 もし、臍の緒で繋がっていたとしても、こんな、ふとしたときの寂しさは、どうにもならないなあと、私は胸の中で携帯を握る。
 なんだか、携帯から掛け直してはいけない気がした。切れるべきして切れたと私は思って、電話ボックスを出る。
「ちょうど、切れちゃったね」
 ノイズのない声が、横から聞こえ振り返る。
 私のカーディガンを片手にかけた彼が、寝不足の顔をして立っている。
 始発の動く時間、私は不安定な繋がりを、また信じてしまった。

 

 

 

 

nina_three_word.

〈臍の緒〉〈電話ボックス〉〈始発〉

 

母体回帰

 男が目を覚ましたとき、電車の外は見たことのない景色に、暗闇が重なっていた。着いた駅で、男は思わず降りる。
 高緒駅。
 中央線に乗っていた男は、乗り過ごし、東京の果てまで来たと理解する。
 駅は、閑散としていて、朽ちている。男にとって初めての駅だった。
 時刻表を見ると、どうやらさっきまで乗っていた電車が、この駅の最終電車だったことを知る。男は小さく舌打ちをし、ポケットから取り出した携帯を見るが、充電が切れていて時間がわからない。
 仕方がなく男は外に出る。改札は無人となっていて誰もいない。駅は丘の上に作られているらしく、改札を出たらすぐ緩やかな坂道となった。
 丘から見下ろすと、底に街灯が疎らに立っているのが見える。町のシルエットが見えた。男は始発までの時間を潰す場所を探すため、丘を下った。
 町には飲食店が並んでいた。ただ、男が見る限り人の気配はなく、全ての店がシャッターで閉められている。街灯が、煽るように点滅した。
 男が町の中心部に辿り着くと、どこか、懐かしい匂いが足を止めた。
 それは、甘いカツ丼の匂いだった。
 匂いに釣られるがまま、男が歩いていると、明かりが灯った店を見つけた。店に扉や窓はなく、半屋台のような形になっている。中を覗くと、アットホームな配置で、テーブルと四つの椅子が置かれていた。
 ただ不思議なのは、店の中には店員も客も存在せず、盛られたカツ丼が、一人分、テーブルの上に置かれていた。
 男は店の中に入り、カツ丼を改めて見る。
 それは、母がよく作っていたカツ丼と、全く同じだった。
「早く食べないと、冷めちゃうわよ」
「わかってるよ」
 聞こえた母の声に、男は思わず反射的に返した。
 瞬間、男の背筋が凍った。今の声は誰だ、と。
「今日はね、アンタの好きなカツ丼にしたんだよ」
「カツ丼だと、楽でいいわあ」
 母の声は店の奥。厨房から聞こえる。
 少し、好奇心はあるが、何かの聞き違いだと男は考え、静かに、静かに、店を出ようとした。
「あら、食べないの?」
 男は厨房から出てきたソレを見て、店を出る足を、身体を、止めた。
 ソレは、成人女性並の身長だが、頭は非常に大きく、数本髪が生え、その顔は膨れ上がり、その膨れ上がった頭と同じぐらいの太い首、女性の身体をふた回りほど大きくした肉付きをしている。服は着ていない。
 そして、性器の位置から伸びる、赤く細長い触手が二本、腹の前で踊っている。
「高広、ちゃんと食べなきゃだめよ」
 ソレは近づきながら、頭の中心部にある小さな顔のパーツが母の表情をして、母の声で、そう言った。
 男は走って、店を出た。
「いってらっしゃい!」
「鍵はちゃんと閉めるのよ」
「ご飯は食べてきたの?」
 ソレは、母の声を発しながら、男を追いかける。
 男は恐怖と混乱をしながらも〈逃げる〉ことと〈名前を呼ばれた〉ことだけが、頭の中ではっきりとしていた。
 母の声、母の表情……母の、記憶。
 ーーなら、母は?
 母と、自然と連絡を取らなくなり、五年。男は、母が気になった。
 町角を曲がるとき、男は後ろを振り返る。
「ご飯出来たわよう」
 ソレは、淡々と、母の表情で追いかけてきている。
 男は、電話ボックスを探した。

 なんとかソレを巻いた男は、駅前に電話ボックスを見つけた。静かに丘から町を見下ろすと、ソレは何かを叫びながら、町を彷徨いている。
 今更になり足が震え、男は母の安否を求めた。
 電話ボックスに入り、受話器を取る。
 男は、一つ一つボタンを押し、懐かしいリズムを刻む。
 しかし、最後の数字が、男には思い出せない。五年という月日が、記憶を閉ざしている。手は焦り、汗が滲んでいる。
 一度切り、最初から打ち直す。男は数字ではなく、リズムで思い出そうとした、そうだ、最後の数字は、八。
 コール音が数回、響く。
「高広」
 男は、受話器を落とした。声がした方を、振り返る。
 ソレは、ソレらは、受話器を囲んでいた。
 男は叫び、地べたに座り込む。
 性器から伸びたその触手が、電話ボックスの隙間から伸び、男の腹を弄る。
「クラスで賞取ったの偉いねえ」
「換気扇は消してって言ったじゃない」
「高広、帰っておいでえ」
 囲まれる母の声、泣き出す男。伸びた触手は、男の臍に繋がる。

 瞬間、安堵。

 電話ボックスの中、男は、母に回帰した。

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈臍の緒〉〈電話ボックス〉〈始発〉

 

君とエーエム

 君か。久しぶり……いや、ついさっき寝たばっかな気もするし、ううん……おはよう、かな。まあ良いか、ほら、立ってないで椅子に座りなよ。
 何から話そうか。
 ううん、じゃあまず、僕の話でもしよう。
 ……僕が誰だって? 誰って……君がよく知ってる人だよ。
 あっけど、その想像した彼とは違うかもしれない。僕は彼の〈現実〉と〈虚構〉によって作れられたんだ。そもそも彼は君のことを「君」とは言わないだろう。君が「君と言われるより名前がいい」と言ったんじゃないか。
 そして、虚構が混ざっているのは、君も。この文章を読む〈君〉だって、様々な〈君〉の読解が混ざり合って出来た存在。鏡を見てごらん、角度によって顔が変わるだなんてユニークだね。
 ほら、彼は“ユニーク”だなんて言わないだろう? そういうこと。
 で、僕の話だ。そうだなあ、そう、僕は九十五年の五月に、千葉県で産まれた。そこからなんだって顔をしたね、まあ、聞いて。
 それで、親の都合で転々と転校したんだ。親の都合ってのは親の都合で、まあ虚構的に言ってしまえば、両親は健在だよ。きっと今も、トラックの運転手をやっている。転々の末、僕は東京の最果ての街に辿り着いた。
 そう、或る君はそこで僕と出会ったね。
 十歳から今に至るまで、僕はずっとこの最果ての街に住んでいる。たまに閉じ込められてる気もするけど、それすら悪くないと思えるよ。最果てだから夕焼けが綺麗なんだ。君も、そう思うだろう。
 うん、だからだね、僕の思い出は夕焼け色が多いんだ。君と秘密基地を作ったあの頃も、君と写真部の暗室に篭っていた頃も、君と手ぶらで登校をしていた頃も。全部夕焼け色だ。
 ここまでは、ほとんど彼とは同じだけど高等学校を卒業してから一変する。
 彼が専門学校に入り失敗しているとき、僕は広い海を彷徨った。
 青い時間線を指でなぞり、そこで君と仲良くなったんだよね。
 彼が日記と呼ぶ世界の中でも生活もしたよ、それは明るく楽しい世界だった。なんて言ったって書けることを書いた世界だからね。そういえば、あの世界で君と出会ったんだ。
 様々な広い海を泳いで、二年かな。瀕死の彼と入れ替わるように、僕は表役を貰った。広い海でのことを無駄にしないように、僕が僕であるために、文字を綴り続けた。文章の怪異と出会ってから、ずっと。
 そうだ、そう、そこで君と出会ったんだ、こんにちは、こんばんは、おはよう。
 文章の怪異から離れ、今度はまた、海を彷徨っているんだ。舟を漕ぐ少女、あの少女もまた、怪異らしいね。
 ざっくり話してしまったけど、これが僕の話だ。なに、彼の虚構混じりの話なんてこんなものだよ。君がいなかったら話にならなかったね。
 さて、どこかで聞いたような締めになってしまうけど、ぜひ、聞きたいんだ。

 今度は君の話を聞かせてよ。

 

nina_three_word.

〈君〉から始まる物語。

君と貸借り

 君は未だに返してくれない。
「ああ悪い、今手持ち足りないから、次会ったとき返すよ。ごめんな」
 そう言われたのは、何度目だろうか。別に生れながらにして家が近いし、逃げやしないだろうけど、君はいつも返してくれない。
「いくら借りてるか覚えてるの?」
「えっと、二万円だろ」
「ううん、一万多いよ」
 貸しているのは、金銭だけではなかった。
「あの小説は読んだの?」
「えっと、途中までは読んだはず」
「……あの小説って、わかってる?」
「あれだろ、男二人が脳みそ弄ってタイムスリップしちゃうやつ」
「えっ、なにそれ……ん? 貸したっけ……違うよ、全然違う、そんなの貸してないよ」
 君はすぐに借りたものを忘れる。それは悪い癖だ、私だから許されるものの、他の人なら怒られてしまう。
 しかし、君は私以外から無造作に借りたりはしないね。そっか、そういえば私だけか。
「そういえばさ、明日合コンがあって、あの、ほらお前がいつも付けてるネックレスあるじゃん」
「蝶の? それとも十字架?」
「蝶のやつ。あれ貸して欲しいんだよね」
「ああ、構わないよ」
 貸してしまう私も、私だ。
「チェーンなんだけど、きっと君の首の長さに合わないから、こっちで適当に別のチェーン用意するけど良いかな?」
「うわ、助かる。本当、いつもありがとな」
 この無邪気な笑顔が、狡い。だから貸してしまうのだ。
 そういえば、貸してばかりなのが癪になった私は、何かを借りようとしたんだ。
「ねえ、何か貸してよ」
「何かって何だよ」
「何かって……何かだよ。いつも私が貸してばかりじゃない」
 君は少し、困った顔をした。
「うーん、わかった。帰り俺んちに寄ろう」
「いや、今持ってるやつでいいよ」
「いま、何も持ってないんだよ」
 私は納得した。
 帰り道、家に入った君は数分後、それを持ってきた。
「ネクタイ……?」
 それはドレス用の、黒いネクタイだった。
「わからないけど、それなら女でも使えるだろ?」
「うん、けど。これを借りたら君の分が無くなってしまう」
「これに限っては別に、親父のを借りればいいしさ」
「そう、そっか、ありがとう」
 君から何かを借りたのは、このときが初めてで、少しだけ安心した。
 お互いが何かを貸し借りしている状態というのは、お互いをロープ二本で括り付けることに等しいと、私は思う。物の貸し借りは契約。君に辿り着く言い訳になる。
 私は君に何を貸したか、今は覚えてるよ。一万と三百円。夜の学校を冒険するアリスの小説。ボールペン四本。インディーズのCD。蝶の、ネックレス。他にも……
 だけど、それらは返って来なかった。
 君から借りたネクタイを、こんな風に使うだなんて、思わなかったよ。
 君は、私の心すら奪っていって、返してくれない。
 君は、君は死んでしまったのだから。

 

 

nina_three_word.

〈君〉から始まる物語。

幸福な患者

 最初は、小鳥を可愛がるぐらいの気持ちで、僕はその子に近づいた。
 小鳥というよりは、ひよこみたいな、可愛くて簡単に潰れちゃいそうで、まさに黄色が似合うような、明るくてひ弱な女の子。彼女とは、小学校の同窓会で出会った。向こうは僕を覚えているというけど、正直〈仁多椎名〉という名前には覚えがなく、そのときが僕にとって、初対面だった。
 椎名は、どの同窓会の中で、場を盛り下げない役を持っていて、誰もが、楽しげに話を振る。久しぶりに地元の同級生に会うと緊張していた僕でも、椎名とは肩の力を抜いて話せたと思う。
 そこで連絡先を交換して以来、頻繁に連絡を取り合った。文面の中の椎名は、明るいというよりは、落ち着いていて、話すときとは違う印象を見せた。その違いに、僕はもっと、椎名に惹かれる。
 椎名は頻繁に、僕の近くに現れた。それは恐らく、偶然的に。何処何処にいる、と言うと、椎名は偶然近くにいたんだ。だから、会う回数は、関係の順序的に考えれば多い方だったと思う。
 だからこそ、関係は加速した。雛は、僕の腹の内に潜り込んできた。
 たった二ヶ月。僕は椎名に魅了された。
 会う回数を重ねるごとに、椎名の明るい声は、次第に、文面のイメージに近い冷たい声となっていった。どうやら〈椎名〉を作っていたらしい。まるで自然界の毒のように、鮮やかさに僕は惹かれて、虜になってしまった。ツヅラフジのように絡まって逃げれない。いや、このときは、逃げようとも思わなかったかな。
 過去の弱さに漬け込むように、椎名は僕に毒という甘味を与え続ける。〈好き〉という誤認識は〈依存〉へ。いつの間にか、僕は椎名の言葉に従い動くようになっていた。椎名の言葉を望むようになっていた。椎名の言葉に、腹の内を泡立て器でかき混ぜるみたいに、ぐちゃぐちゃにして欲しいと、願うようになっていた。
 ふと、その危険な熱に気づいたのは、銀行の残高に悩んでいたときのことだった。決して貢いでいたわけではない、寂しいと言う椎名の側にいたくて、仕事を休んでいた結果だ。
 しかし、気づいた時には遅かった。既に、椎名への想いは勝手に増殖していた、まるで癌だ。僕は、僕は悪くない。僕は……
 こうなってしまったのはいつからか。事の発端は。雛が腹の内に入りツヅラフジのように絡まり泡立て器でかき混ぜた、事の発端は。
 今となっては、その入り込んだ、傷口も、瘡蓋も見当たらないんだ。
 瘡蓋が見当たらないのは、きっと治ったから。
 治ったのなら、悩む必要もない。
 そうだね、椎名、君がそう言うなら、きっと正しいんだ。
 ずっと、このままでいようね。

 

nina_three_word.

〈がん〉〈葛藤〉〈ひよこ〉〈瘡蓋〉〈泡立て器〉