kurayami.

暗黒という闇の淵から

まじないの怪物

 男が一歩を踏み出した時、木造の床が泣くように軋んだ。
「じゃあこの貝殻は? いくらよ」
「お前さんじゃ、買えないぐらいじゃろうなあ」
 欠けた桃色の貝殻を手に取った男に対し、支払い口に座った老人が答える。
 小さな豆電球が無数にぶら下がった店内。傾いた雑貨屋。
「これもかよ、ほぼ非売品じゃねえか」
「お前さんには高価な店って言ったはずだ」
「でもさ、貝殻よ、これ。これ何の価値があるっていうのかね」
 その貝殻は海の砂も落ちていないまま、静かに年月だけを物語っていた。
「この時、この場所に居ない恋人たちが残した品だ。深い呪いが掛かっている」
「へえ。これにねえ」
 軽い口で男は言うが、特に疑ってはいない。何故なら男もまた、呪いによってこの店に導かれた存在だったからだ。
「なら、これは」
 手に取られたのは、酷く干からびたナニか。
「馬鹿なヤツめ。はやく元の場所に戻したほうがええぞ、それは神の臓物の成れの果てだ」
 老人の言葉に男は鼻で笑いつつも、慎重に神の干物を棚に戻した。
「せっかくさあ、来てるんだからさ。なにかしら俺が買うべきモノってのがあるんじゃねえの」
 横目に老人を見た男が一言付け足す。
「運命みたいな出会いがさ」
「どうじゃろうな。お前さんが得たのはここに来る過程だけなのであって、ここで何かを手に入れるかどうかは……別というモノじゃ」
「はーかたぶつ」
 この老人を殺せば全部俺のモノなのに。そう考えている男が実行しないのは、利口だったからこそ。
 一体いくつの呪いが解き放たれてしまうことか。
 相変わらず床を泣かしつつ、男は並ぶ棚を物色した。そこには空の金魚鉢に入った二つのビー玉、綿だけの縫いぐるみ、紅色の土など、理解を超えたモノが並んでいる。
「一応聞くけど、これも高いんかね」
 奥の奥。男の二つの指に掴まれたのは、白く輝く水々しい蕾。
「ほう、ほう。それを見つけるとは。……ふむ」
「どうなんだ」
 遠くの支払い口に座る老人が目を細める。
「そいつは三千年の罪を拭うだけの呪いが込められた、因果の花だ」
「……良いね。で、値段は」
 全ての罪を拭う。その甘い言葉を聞いた男が、改めて両手で蕾を持ち直した。
「売れん」
「んだよ、本当に非売品ってやつか」
 肩を落とすフリをして、男が蕾を隠すように棚の奥へと置く。
「いや、正確には〈まだ〉というだけじゃ。そのときが来れば……売ってやってもいいが」
「いつなら売れるって言うんだい」
 男からの問いかけに、老人はにやりと笑った。

 
 
 

 

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〈 非売品 〉
優曇華
〈 免罪符 〉

終わりなき日常の寄り添い

 頭上には、私の日常が見えていた。
 明るい空に街が島となって浮かんでいる。そこには大好きなクレープ屋さんや小さい頃からお世話になっていた商店街が、下から透けて見えていた。通えばなんとかなる学校も、なんだかんだ憎めない家族たちも。全部私の日常だ。
 そんな日常の街から下がる螺旋階段を、私は貴方に手を引かれて、降り続けている。
 一歩なんてものは単純で、理由を抜いてしまえば小さな動作でしかない。
 だから、降り始めたときの一歩目なんて覚えているはずがなくて、今もこうして日常から離れ続けていることの始まりを思い返そうにも、とてもとても無駄なことだった。後悔なんて意味がない。でも、横の景色が変わってないように見えるのはぐるぐる回ってるだけだからであって、実は見上げるたびに私の日常は遠くなっている。降りる先は真っ暗闇。このまま行けば私はもう、あの日常には帰れなくなってしまうのだろう。
 始まりを後悔しなくても、手を引いて降り続けるこの人を止めることは出来る。まだ目に見える日常に向かって階段を登れば、帰ることだって出来るはずなんだ。戻れる今のうちに、駄目だと判断してしまえば。
 あれ。でも、私の日常ってそんなに良いものだったのかな。
 この人を否定してまで、帰るべき場所だったっけ。
 別にそんな大切な人じゃない。少し前、日常に突然現れたこの人は私の手を引いて、いつの間にかこの何処に続いてるのかわからない螺旋階段を降り始めた。過去の思い出に深く干渉してるわけでもないし、私はこの人のことをあまり知らない。なのに、なぜか悪い気がしなかった。誰にも引かれなかった手を掴まれて、導かれることを喜んでしまっていた。
 元々私は、日常のなかでなにを頼りに生きてたんだろう。少なくとも理想はあった。この日常を維持しつつ、全ての願いを叶えたいと思っていた。それで空っぽになって……つまり満足して、死にたかった。ああ、だから毎日ちょっとずつ願いを叶え続けることは、日常の頼りだったと言えるかもしれない。そうだ、私は〈いつ終わるかわからない〉に寄り添っていた。
 日常に帰ったところで、私の頼りは虚しくも叶わないまま続く。貴方は、そんな虚しい日常の頼りの代わりになると、言えるの。
 寄り添ってもいいの。
 私に死を、もたらしてしまうの。
 この螺旋階段は何処まで続くんだろう。貴方の暖かい手は降り続ける限り離してくれないのかな。なんでこんな終わりみたいな場所へ向かってるのに、酷く安心してしまっているのかな。
 ねえ。貴方の「大丈夫」に、寄り添ってもいいかなあ。

 

 

 

 

 

 

 

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〈 思慮分別 〉
〈 螺旋階段 〉
〈 代償行為 〉

孤独から見つめた星々

 また一つ、光が途絶えた。
 元はと言えば最初に僕が消したんだ。高校卒業を区切りに全部変わるつもりだったから。だって元々の僕はそれはもう酷かったんだよ。頭が悪くてお調子者で、時に人を傷付けてでも身を守るような勝手。今しか考えてないツケが巡り巡って自業自得に苦しんでいた。そんなどうしようもない僕を殺すには、関係リセットという形で大半との〈繋がり〉を途絶える他にない。誰とも離れたくはなかったけれど、こうなるまで悪化した僕が悪いから仕方がなかった。仕方がない。何度だってそう言い聞かせた。
 そしてあの時、四月一日に、多くの光を自ら失ってしまう。
 いつもの賑やかさが携帯から失われて、一気に暗くなった。その分伝えたり揺れたりする感情が少なくなって、僕の感情は徐々に落ち着いていく。本当に死んで生まれ変わったようだった。いつも一緒に馬鹿をしていた友達がいなくなっただけで真面目なことを考える時間が格段に増えたし、大学で出来たおとなしい友達と一緒にいると昔の時間とはなんだったのだろうと疑問に思う。過去が無いみたいで寂しいとは思ったけれど、その暗い感情すら大切に抱いて自身を変える糧にしていた。
 大学やバイトで出来た新しいコミュニティによって、新しい光は徐々に増えていく、大切な〈繋がり〉。もう二度と自身を駄目にしないように、もう光を途絶えないようにと、身を落ち着かせたんだ。先を見据えて、誰も傷付けないようにと小説のページだけを捲って、近付く人には優しくして。
 去っていく人は無理に追わなかった。
 ただ、それだけだろう。
 光は刻々と途絶えていく。可笑しなことに、おとなしい人でいるだけで〈繋がり〉は何故か離れていくんだ。そんなわざわざ離れる必要ないじゃないか……いや、もしかして僕がまだ変われてなかったのかもしれない。そう思って、だから、もっと、大人しくして、無害だってことを証明し続けた。暗さは無害だ。静けさは無だ。そうだろう。
 日々光が失われていく中で、僕は本当の暗闇を知らなかったんだなあと実感する。何も見えなくて、選択肢がない。ただ、そんな広がる暗闇に微かに残る光が強く輝いて見えて、綺麗だと思えた。ああ、無になることは無害とかじゃなくて、興味を持たれないだなんてこと、何かしらの刺激があるからこそみんな繋がっているだなんてこと、こうなるまで気付けなかった。
 日常は常に夜に。僕は孤独へとなっていく。
 今更変わる気なんてなかった。元に戻ることはもちろん不正解だし、他に変わりようがわからない。
 きっと、こうして途絶えていく光を見続けることが、僕の唯一の選択肢で、他にない正解。
 

 

 

 

 

 

 

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〈 刻々と 〉〈 途絶える 〉

ヒイロ

 きっと翌日には起きるつもりだったのかもしれない。
 長く続いた救済と戦いの日々に、一瞬だけ、理由が無くなった日。くたくたに疲れてしまったヒーローは、干されたてのベッドに入り込んだ。太陽に焼かれた柔らかい匂いに包まれ、眠りに就くのが一瞬になってしまうほどの疲労と安心によって、夢の底へと落ちていく。全身の緊張は溶けて水になってしまうように。
 誰にも邪魔されない。秘密のアジトの中で、安からな眠り。
 誰も彼の寝息に文句を言うことなんて出来ない。
 しかしヒーローはそれから、目覚めることも、死ぬこともなかった。
 翌日、三日、一週間経っても現れることはない。もちろん、その時代に生きる人々はヒーローがただ眠っている、今は休んでいるだけだということは知っていた。それでも救済は望まれる。戦いは必要とされ続けた。悪と呼ばれている存在は命を奪い、理不尽な哀しみを生み続ける。この世界唯一の光、秩序と抑止力の存在であったヒーローの眠りによって、人々の理想とも言える現実は崩れていく。
 ただ一人の目覚めを誰もが信じて待ち続けた。恨むこともなく、咎めることもなく。一人の目覚めに全ての救いの責任を無自覚に押し付けていた。狂気な暴力はヒーローにしか救えないと、悪ですらそれを信じて誰もが疑わなかった。
 子供から親が奪われるだなんてことはなかった。
 少女が売春でしか生きれないだなんてことはなかった。
 少年が銃を学び手に持つ必要だなんて今までなかった。
 奪い奪われることなんか、今までは当たり前ではなかった。
 始まり出した哀しみの連鎖に慣れず絶望だと嘆く人々は、これが全ての救いを一人に押し付けていた世界への罰だということに気付かない。気付けるはずがない。秩序だけが当たり前だったのだから。困っていれば助けに来る人がいたのが、当たり前だったのだから。自身を救う術を知らないことは罪となってしまっていた。
 ヒーローの眠りは夢を見ることもなく続いて、意識は深く落ち続けている。
 数世紀。寝息をたて始めてから長い年月が経ち、命ある秩序の存在を知る者はこの世に誰一人としていない。世界絶対救済の力を持つヒーローが今もなお、眠っていることを誰一人として知らなかった。
 対峙していた悪は〈世界の仕方がない事情〉として定着している。
 人々は救う術を扱い始めたが、誰しもが下手くそなままだ。
 しかし、存在は忘れられても、言葉だけが残っている。
 口に出せば、いつか救いに来てくれる気がすると、呪文のように。
 無責任に信じる存在として〈ヒイロ〉と。

 

 

 

 

 

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〈 寝穢い 〉

チョコと雨

「実はさ、こうして僕が世界に出てくるのは初めてじゃないんだよ」
 細長いカフェの奥。俺と対面する長髪の男は目を合わせず、窓の外を見て呟いた。視線の先には気配を消したラブホテルが建っている。
「というと?」
「初めては多分『ドーナツ神話』かな。『生温い告白』も出たし、その次の日の『許された恋』なんてがっつりと出てる。他には『君とエーエム』とか、あと三題噺をオマージュにしたやつとか。最近なら『僕が知らない時間』にも出たよ」
 男はアイスコーヒーの中に入った氷を、ストローでかき混ぜた。
「いや、見方を変えればもっと出てるのか。なんだったら一番最初に書いた、某文芸誌に載ってる作品『傷の降る手首の話』だなんて僕が今みたいにアイスコーヒーと共に語りだすし」
「良いのか。その、そんなにでしゃばって」
 俺の言葉に男の遊ぶ手が止まる。袖を捲った腕には数本の線が見えた。
「そうだねえ。そういう芸風だって言い張りたいけれど、あまり良くないよね。だってそれって創作かどうかも怪しい。というか、ずるい。面白ければ良いんだけどさ」
「なら、今日は」
「今日は……〈メタ〉だから良いんだよ。僕も仕事で疲れているんだ。出題単語にぐらい甘えさせてくれって」
 椅子に深く座って、男は駄々を捏ねるようにぼやいた。ああ、そういえば今日って何曜日だっけ。
「月曜日だよ」
「ト書きを読まないでくれよ」
「一人称視点で君が主人公なんだから仕方がない。ちなみに三五七日目の作品だ」
 とことん〈メタ〉だなと思った。目の前のキャラメルマキアートはまだ冷めない。
「今日はいつもみたいに〈くたびれた男〉の話にしないのか」
「僕と君がもう、そんなところあるし、何もわざわざ過去や未来を今考える必要もない」
「いや、俺は別にくたびれてなんか」
 続きを言いかけた俺に対して、男は不思議な顔でこちらを見ていた。
「いいや、君もまた、くたびれてるよ」
 そう言って男は空になったグラスの中の氷を転がす。
「なんだったら君は〈憂鬱な少女〉でもある。愛に溺れた〈殺人者〉とも言える」
「どういうことだ」
 はらりと俺の前髪が目にかかって、対面に座る男がぼやけた。
「君もまた、ここにいる僕と同じように〈代弁者〉でしかないからさ」
 気付けば空はいつものように夕暮れ始めている。そして当たり前のように、人の気配は店内にも外にもない。
 男の言葉の続きを、何故だか聞きたくなかった。
「チョコにも雨にもなれてしまう僕らを、誰と呼ぼうか」
 自覚を得てしまった君は、もっと不幸だ、と男は付け足した。
 ああ、そうか。ここには〈僕〉の意思が、一つだけだった。


 

 

 

 

 


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〈 平行世界 〉
〈 メタ 〉

光道

 彼と私の美術室は、休日という理由以上に二人きりで特別な空間でした。
 美術室の外、廊下にはいつもの賑やかさはなくて、静かで、たまにグラウンドから陸上部の声が聞こえるか聞こえないか。外の光がカーテンを通して美術室を照らしてる。それが白くてとっても綺麗で、神々しい。
 イーゼルとキャンバスに向き合う彼は、もっと綺麗です。
 背筋を真っ直ぐ伸ばしてずっと絵を睨んでいます。さっきからずっと筆が空中に止まって絵の具が乾燥してます。キャンバスには砂浜と月明かりに照らされた海が下書きで描かれていました。なにを考えているのでしょう。気になることはたくさん。いっぱい話したいことはあるけれど、邪魔をしてはいけないので私は我慢をします。彼に嫌われたくないから、良い子だと思われたいから。
 改めて濃い赤を筆に取った彼は、キャンバスの中の海に色を足していきます。夕方の海なのかな。ああ、彼が溜め息をつけば、話しかけるタイミングなのに。
 気になること。その絵がどんな絵かはもちろん、特に「今なにを考えているの」って聞きたかったのですが、どれもこれも聞かないとわからないことなので、私だけで考えれることを考えます。なにかしてあげれることはないかな。ジュースとか……ああこの人はいらないって言いそう。この後はどうするんだろう、すぐ帰っちゃうのかな。
 あ、これって、デートなのかな。
 今日という休日。二人で居たいと私が願って、どこでもいいからって私が言ったら、彼に美術室に連れられたのです。休日二人ってのはデートっぽい。だけど彼に「これってデート?」って聞けば「そう思うならそうなんじゃない?」って返されるのはわかっています。デートって同意なんでしょうか。彼の分も私が強く「デートだ」って想えば、二人分になるのでしょうか。とっても寂しいけれど、それで解決するのなら私は強く強く「デートだ」って想います。
 彼の、溜め息。
「疲れちゃった?」
 私は自然に、飢えていたのがバレないように、彼に話しかけました。
「ううん、どう描こうか悩んじゃって」
 まだ少し高い彼の声。いや、きっと、彼はずっとこの声なんじゃないかって思うときがある。
「ねえ、どんな絵を描いてるの?」
「どんな絵に見える?」
 真面目な顔をする彼に、私は一瞬戸惑って、悩まず思ったままを伝えます。
 描き途中の絵は、赤い海の上に銀色の月が浮かんで、一本の道みたいに光を照らしていて。
「夕方の海と、力強い満月の絵。切ない」
「ふふ」
 私の答えに、彼はどこか満足そうに笑いました。どうやら彼の仕掛けに、私は引っかかってしまったようで。
「答え、教えて?」
「ん。これはね」
 彼がイーゼルの縁を、滑らかになぞります。
「血の海なんだ。醜悪に塗れたこの世界そのモノ」
 何かを確認するようにイーゼルをなぞる指から、私は目を離せず、彼の言葉からも耳を離せません。
「僕たちはいつか、安全地帯である〈今〉という砂浜からこの血の海に入らないといけない。汚れて、世界の血にならないといけない時がどうしても来るんだ」
「それは、絶対?」
「きっと絶対……だけどね、一つぐらい〈甘ったるい光〉があって、導いてくれたら良いなって。これは、そんな絵なんだ」
 暗い声でそう言った彼が、イーゼルから指を離しました。
 私には、彼の言ってることが全然わかりません。
 実のところ、彼の暗い部分を理解出来ていません。理解しません。けれど、彼が言う世界の血になるのは、みんなと同じになるのは、嫌だなあと思いました。
 だから私は、彼にとっての〈甘ったるい光〉でありたいと、そう思うのでした。




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〈 デート 〉
イーゼル
〈 モーンガータ 〉

不完全再生少女

 初冬の夜の匂いが、煙草を咥えた男をベランダへと誘い出す。住宅街の隅に建てられたマンション七階から見える景色は、ばらついた色の屋根の群れ。男にとっては見飽きた景色だった。だからこそ、煙草を吹かして遠く見つめる景色は住宅街ではない。
 思い出せないはずの、記憶の断片。
 ノイズ塗れの、はにかみ顔の少女。
 再生。それは男が稀に思い出せる断片であり、忘れてしまった断片だった。名前も、正確な声も、顔すらも思い出せない少女。しかし、ノイズ塗れの存在は確かに照れ隠しを交えて男に語りかけている。現実味のある過去らしく。
 自身の年齢も正確に言えないぐらいに男は歳を重ねていた。大学生だった頃は〈昔〉となって、高校生だった頃が〈幻〉に溶けている。中学生や小学生だった頃の記憶は現実味が無いほどに遥か過去だった。思い出そうにも何一つ正確なモノはない。その中でも唯一、名も忘れられた少女を不完全な記憶として無意識に再生していた。
 男が吐いた煙草の煙が空中に溜まって、風に流される。再生される少女の記憶はいつだってランダムだ。教室らしい場所。地元の公園。近付いてはいけないと言われていた河原。ノイズ越しに見える少女の年齢は不確かだった。私服が多いようで、たまに何処かの学校の制服を着ている。だが男にとって、それは記憶が勝手に補完しているだけに過ぎないと、何時の時代の少女かを思い出すのに当たって手掛かりにはならないと考えていた。重要なのは少女の存在が確かにいて、男に接していたということ。
 幾つかの共通点に、男は既に気付いていた。少女の周りには常に人がいないこと。思い出される場所は気軽に行ける二人きりになれる場所だということ。男にとって、淡いモノだったということを。しかし、気付けるのはそれだけだ。
 二人きりの時間。
 はにかみ顔の少女。
 ノイズ塗れで正確に思い出せない関係、言動、思い出。
 確かめようがなかった。いや、男は確かめようとしなかった。はっきりと思い出したところで、記憶は過去であり、もうその少女はいないのだと察していたからだ。過去は過去だと、今あるのは現在だけだと、男は知っている。
 むしろ思い出さなくて良いと、思っていた。
 男はノイズ塗れの少女に、病み付きになってしまっていたから。
 不確かで清く純粋な淡い記憶。思い出すたびに過去を肯定し、汚れていなかったことを証明する。ずっと消えない蝋燭の心細い灯火。男にとっての、救済。
 冷たい風が男の鼻を掠めた。
 正体不明の記憶に縋る程に、歳を重ねてしまっている。

 

 

 


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〈 はにかみ顔 〉
〈 忘れたこと 〉
〈 やみつき 〉