kurayami.

暗黒という闇の淵から

疑問というドアノブ

 

 ドアノブと鍵の共通点として、ドアを開けるのに必要なもの、という点がある。
 ならドアノブと鍵の違いはなにか、備え付けかどうかという点もあるけど、僕が思うのは使う順番だ。
 ドアを開くには、鍵を入れ、最後にはそのドアノブを回す必要がある。
 ドアノブは、ソレを開くかどうかという、最後の選択となる。

 視界がぼやけていると意識し始めてから、もう一ヶ月が経った。
 流石に生活に支障が出ると思い、一昨日眼鏡屋で眼鏡を作ったけど、届くのにあと一週間もかかるらしい。もっと、簡単な眼鏡にすれば良かった。
 だから、一緒に暮らす彼女の顔が、はっきり見えないんだ。そのことを彼女に伝えたら、向かいの席から、隣に席に座ってくれるようになったけど、それでも、近づかないとはっきり見えないし、近づいても顔の全体が見えない。
 どんな、顔だったっけ。
「今日はね、カレーライスを作ったの」
 休日のリビング。君は隣に座って、目の前の料理を教えてくれた。そこにある料理はぼやけてはいるけど、確かにカレーの色と、あの匂いがした。
「ああ、美味しそうだね」
 少ない情報を頼りに、僕はそう言った。
「でしょ。貴方の好きな牛肉を使ったの」
「奮発したね。嬉しいよ」
 僕は食前の一礼をして、カレーを口に運んだ。水気の少ない、緩くない僕好みのカレーと、柔らかく煮込まれた肉を口で確認する。
「どうかな?」
「うん、美味しい」
 美味しいけど、これは、本当に牛肉だろうか。牛肉は、こんな味だったか。
 昔の話に、人肉を家族に調理して出した母親が、子供に何の肉か問われ「山羊の肉だべ、山羊の方が牛肉よりずっとうめえ」と誤魔化したというものがある。滅多に食べない山羊を出すことによって、子供の未知の肉への疑問を誤魔化せたわけだが、この場合の牛肉は、本当に牛肉だろうか。むしろ、この肉が、山羊でもおかしくないかもしれない。
 考えているうちに、視界以外の情報による信憑性の薄さの可能性に、気付き始める。
 〈カレー〉というのは、こういうものだったか。
「どうしたの?」
 彼女が、僕を心配して、隣で覗き込むような動作をした。
「あ、ああ、大丈夫だよ。ちょっと、顔洗ってくるよ」
 僕はそう言って、逃げるように洗面所へ向かった。
 情報が足りない、彼女は本当に、〈彼女〉だろうか。
 洗面所で水を流し、指先を冷やす。その刺激が疑う思考を落ち着かてくれる。少し、どうかしていたかもしれない。
 彼女は……彼女だ。間違いない。あの声、その心は、ずっと昔から変わらない。僕の彼女だ。
 すぐリビングへ戻ろう。僕は顔を上げた。
 すると目の前に鏡に、一人の男が映っていることに気づく。
「……お前は、誰だ?」
 崩壊を開くドアノブは、一つの疑問からだった。

 

nina_three_word.

〈ドアノブ〉〈隣〉〈ゲシュタルト崩壊〉〈山羊〉