kurayami.

暗黒という闇の淵から

背後ナニカ

「せめて……せめて、許されるなら、」
 女は、暗闇に閉ざされた洗面台に向かって、懇願するように呟いた。
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 仕事中のことだった。パソコンのモニターを凝視する女は背後に、大きく威圧感のある、ナニカの気配を感じ取った。しかし、後ろを振り返るが、そこには誰もいない。女は気のせいだったと思い、そのときは仕事に戻った。
 その日を境に、背中の気配が気のせいではなかったことを、女は知ることになる。
 女がモニターに集中しているときに限り、その大きなナニカは後ろに現れた。普段はジッと動かず、時折痙攣のような動きを背後でするナニカ。
 出来る限り女は、そのことを考えないようにした。気の疲れ。女がそう思えるのには、心当たりがあった。
 多忙だったから。新しい仕事を覚えたから。
 あの人が死んだから。と。
 しかし、それも長くは続かなかった。まるで、自身の存在を訴えるようにナニカは声を発し始めた。
「      」
 ぼそびそとした声に、女は振り返りも、声を上げることもしなかった。反応しては、いけないと感じたからだ。
「       」
「     」
 聞き取れない言葉。女はそれに反応を示さなかった、反女は、その存在に心当たりがあった。
 半年前に交通事故で死んだ、女の恋人。デートの帰り、恋人が女を家に送ってる途中のことだった。女が振り返ったときには、恋人の死体は潰され、大きく広がっていた。女は悲鳴を上げた。しかしそれは、悲哀からの叫びではなく、グロテスクへの非対応故。
 女はさほど、恋人を愛していなかった。死んでしまった時も、特別な感情で悲しむことはできなかった。
「   」
 背後のナニカが、また、ぼそぼそと呟く。
 女は、恋人の霊に取り憑かれたのだと考えた。特別悲しまず、愛さなかった私を恨んでいる、と。
 女はひたすら心の中で謝り続け、仕事中は一切反応を示すことをしなかった。
 仕事を終え女は帰宅する。背後のナニカから解放された女は、やっとの思いでソファに沈み込んだ。しかしその瞬間。
「      」
 女は飛び上がった。ナニカは、家の中にまで入ってきていたのだ。
「   」
「  テ」
 ナニカの声に、女は耳を塞ぐ。しかし、それも意味も無く、声は女の中へと入っていく。
「 メ    」
 声は、少しずつはっきりとしてきた。女は恋人が怒っていると思い、謝罪を口に出し、繰り返した。
「ごめんなさいごめんなさい……」
「         ラ。         ラ」
「ごめんなさい……」
「         ラ」
 脅迫的な呟きに、耐えきれなくなった女は、立ち上がり、鏡のある洗面所へと逃げ込んだ。女は恋人に、向き合おうとした。
 洗面所に入り電気を点ける。時差で点く電気の、その暗闇の一瞬、女は口にした。
「せめて……せめて、許されるなら、」
 私の背後から離れて、消えて。
 心からの言葉に、女が気づき我に帰ったとき、電気が点く。
 そこに、鏡に映っていたのは、潰れ、広がった、女自身。
「セメテ、許サレルナラ」
「私ノ背後カラ離レテ消エテ」
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」
 女自身の、罪悪感。

 


nina_three_word.

「せめて、許されるなら」