kurayami.

暗黒という闇の淵から

臙脂色の傘

 今日も、あの子の傘はなかった。

 荷物の詰まった段ボールが日に日に増えていく。この街を離れるまであと、二日だ。
 所謂、一目惚れというものだった。あれは二年前の梅雨。今日みたいに紫陽花が喜びそうな、シトシトと雨が降る、梅雨の日のことだ。俺は冷蔵庫の中のビールが切れたことに気付き、買い物ついでに坂の下まで降りたんだ。水溜りに片足突っ込んで、雨という災害に対して殺意を抱いていた。些細な雨だというのに小規模な冒険をして、なんとかコンビニに辿り着いた。ああ、ちなみにそのコンビニ、最寄りのコンビニってわけじゃない。お気に入りのビールってのがあって、それがこの坂の下のコンビニまで行かないとないんだ。ついでに欲しい煙草もここででしか買えない。悪いのは最寄りのコンビニと、この化物坂だ。
 まあ、そんな悪態をついていたのも、その日までだったんだが。
 買い物を済まして、帰りの上り坂に嫌気がさしていた俺は、出口で綺麗な女とすれ違った。肩まで伸ばしたロングの茶髪、大きな黒目、みどり縁のメガネ。左頬の小さな黒子。甘い香り。小ぶりの胸。一瞬のすれ違いだったにも関わらず、多くの情報量が俺に入ってきた。まあつまり、俺はその女に惚れたのだ。
 コンビニを出る時、傘立てには俺のビニール傘と、臙脂色の傘が刺さっていた。店内には俺一人しかいなかったことから、それが彼女のモノだということがわかった。
 ああ、それからだ、俺が臙脂色の傘に過剰反応するようになったのは。馬鹿みたいに傘を気にするようになったし、雨を毛嫌いしなくなった。そしてあのコンビニの傘立てに、臙脂色の傘が刺さっているのを見かけるたびに、俺は煙草を買いに入っていった。どうやら、あのコンビニが彼女にとっての最寄りらしい。
 しかし人見知りな上に奥手の俺は、いつになっても彼女に声をかけられなかった。進展は正義ではなく、希望だ。そして希望は表裏一体、絶望でもある。声をかけてドン引きだなんてこともあり得る。しかし彼女のことは心の底から好きだった。
 そんな想いを募らせ腐らせ、二年。俺はある都合で、この街を引っ越すことが決まってしまった。それもこの梅雨に。まだ彼女に、何も伝えていないのに。
 引っ越しが決まってから俺は、雨の日は必ずコンビニに行くようにした。会ったその日に、気持ちを告げるために。伝えなければ必ず後悔することを、俺はわかっていたからだ。
 しかし、彼女になかなか会うことは出来なかった。荷造りされ、梅雨に湿った段ボールが日に日に増え俺は焦っていく。
 もう会えないのかと諦めた、引っ越し前日。ついに、傘立てに臙脂色の傘がささっているのが見えた。彼女はレジで精算している、どうやら公共料金の支払いをしているようだ。
 とっさに俺は、コンビニの横に隠れた。しばらくして、彼女がコンビニから出て行くのが見え、俺は後ろを着いて行く。このまま家に帰るのだろうか、だったらチャンスだ。
 この時をずっと待っていた。もっと早くこうしていれば良かった。どうせサツに追われる身なのだから。何をしても怖くはない。彼女が家の玄関を開けた瞬間に、俺に長く付き合ってくれたこの傘で、背中を刺し抉ろう。怯んだ隙に、雨に濡れないように、家の中に連れ込むんだ。
 あとはその、美味しそうな黒子を抉っていただくだけ。

 


nina_three_word.

〈 傘立て 〉

〈 段ボール 〉

〈 抉る 〉