kurayami.

暗黒という闇の淵から

泉の底

 夜の曇り空に赤い光が反射して、夏の祭囃子が町に響いている。
 そんな夏祭りから逃げるように、二人の少女が町の外れにある神社へと訪れた。
 神社は、まるで賑やかな町から切り取られたかのように、冷たく静かな空間を保っている。
「思ったより、人いないね」
 ポニーテールの髪型をした少女……スミカが辺りを見渡してそう言った。
「ね。でも、ここちょっと雰囲気怖いもんね……」
 前髪を切りそろえた少女……サキが、スミカの裾を掴んだまま答える。
「あの言い伝えが、あるからかも」
 神社の奥をスミカが見て、呟いた。
「言い伝え?」
 スミカが「こっち」と言って、サキの手を引っ張り神社の脇へと入っていく。
 神社と森の境界を歩き進んだ奥。サキが連れて来られたのは、石で囲まれた池のような場所だった。
「こんな所に、池があったの。知らなかった」
「ううん、池じゃないよ。泉」
 サキの言葉をスミカが訂正して、泉の前に腰を下ろす。つられてサキも横に、ぴったりとくっつくように座った。
「えっとね、お爺ちゃんから聞いたんだけど」
「んん、待ってスミちゃん。それ、こわい話?」
「んー大丈夫だよ。私がいるから」
「えっと、なら、大丈夫かも」
 根拠のないスミカの発言に、サキが首を傾げて納得したフリをする。
「そう、それでお爺ちゃんから聞いたんだけれど。ここの神社って由緒正しい所なんだって」
「由緒って、なあに」
 サキが泉をぼうっと見てスミカに聞いた。
「ずっと昔からあるって、ことだよ」
「昔って、どれぐらい?」
「それがね、この町が出来る前から、千年以上も昔って言うんだ」
「すごく昔だね」
「うん、すごく昔」
 二人が見つめる泉の中で、魚が動いて波紋が広がる。
 耳を澄ませばまだ聴こえるはずの祭囃子は、神社の雰囲気に呑まれて、二人には届いていない。
「それで、その頃死んだ人は全員、幽霊になってもあの世に行かないで、たくさんうろうろしてたんだって」
「たくさん。そんなにたくさんいたら、怖くないかも」
「うん。だけど、死んでいなくなった方がいい人、ってのもいたらしくて」
「どうして?」
「えっと、悪い人……泥棒さんとか好き勝手してたら困るでしょ? あと、嫌いな人がいつまでもいたら、嫌じゃない?」
「困る、嫌」
 サキが納得した表情を見せた。
「だから、そのまま幽霊を野放しにすることを回避するために、生きてた人は神様にお祈りして、幽霊たちをあの世から出れないようにした」
「どうやって?」
「神様は、幽霊をあの世に閉じ込めるために、泉を作ってたくさんの雨を流した。軽かった幽霊たちは水のの重さに流されて、潰されて、今も泉の下に……」
 スミカの言葉に、サキが泉を凝視した。
 暗い暗い泉の底で、水に潰されて動けないまま、もがいている。サキは泉と死への恐怖を、同時に連想して泣きそうなった。
「こわい」
「うん、こわいね」
 慰めるように、サキの頭をスミカが優しく触る。
 死と泉。それに恐怖しているのは、スミカも同じだったから。

 

 

 

 


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〈 泉下 〉
〈 回避 〉
〈 由緒 〉

 

雛鳥の初恋と終わりの後押し

 私が可愛く鳴けば、仕方がないと言わんばかりの顔をして餌をくれる、甘い甘い貴方のことがとても、好きでした。

 私が〈育て屋〉に預けられたのがもう、七年前のことになるのね。
 窮屈で、とても女臭くて辛気臭い場所だったわ。過半数の女の子たちが〈女〉として売られる未来を受け入れずに、ずっと愚図ってた。
 悪態が絶えない子。隅っこで膝を抱えて泣いてる子。虚ろな目で天井を見上げている子。みんな不幸そう。
 私は、私はそうでもなかった。
 少しだけ底意地が悪い女の子だったから、他人の不幸そうな姿を見るのが楽しかった。少しだけ頭が悪い女の子だったから。先の未来なんて漠然として不安にはならなかった。
 それに、少しだけマセた女の子だったから、恋をしてた。
 無精髭が生えた、管理人のお兄さん。この屋根の下の、唯一の男の人。
 みんな、お兄さんを悪魔のように怖がっていた。まあ、不幸の原因だものね。仕方がないのかもしれない。だけどお兄さんだって仕事でしてるのであって、売り飛ばすことが趣味ってわけじゃないの。
 何より、私たちのような雛鳥を生かしてくれていた親鳥だったのに、みんな恩知らずも良いとこよ。
 餌の時間になるたびに、私は尻尾を振るようにお兄さんに話しかけた。
 お兄さんは仕事柄に合わず、無愛想だけど、とても優しい人だった。それに生真面目。私たちの管理を怠ることなんて一度もなかったもの。そんなとこも好きだった。
 何より私が好きだったのは、先の不幸を嘆く女の子たちの目とは違う、全てに絶望したような、深くて暗い淀んだ目。話してるとき、目線はこっちを向いていても多分、私のことは見ていなかった。
 何を見ていたのかしら。もう知りようがないけど、きっと何も見てなかったと思う。
 その目には、何も映っていなかったから。
 日々、お兄さんに恋をして、拗らせて、私、乙女だった。
 だからこそ、嫉妬心が生まれる。焦りが生まれてしまう。
 他に餌を貰う女の子たちにも。次々と追加される新しい女の子たちにも。私は嫉妬して、焦っていた。
 淀んだ目に光を灯す女の子が現れることを、酷く恐れていたの。
 絶対に私だけのモノにしたくて、お兄さんに親身になった。辛くない? たまには甘えることも必要よ。私がなんでも聞いてあげる。
 なにか悩んでることはない?
 そんな、母のように甘やかし続けていた中で、お兄さんの口から淀んだ願望吐き出された。
 希死念慮
 私はとても哀しくなった。だって、お兄さんが幸せになるのも、私がお兄さんを独り占めにするのも、死を後押しするしかないんだもの。
 だから、私は餌の恩返しのつもりで、お兄さんを甘やかしてあげたわ。
「そうね、貴方は、死ぬべきなのかもしれない。ううん、死ぬしかないの。だって貴方が生きていても、何も、永遠に咲くことはないから。大丈夫、私が見ててあげるから、ね。大丈夫よ。安心して」
 私の言葉を聞いた夕方、お兄さんは私たちの牢の鍵を開けて、首を吊って自殺した。

 そのときになって初めて、好きな人を抱きしめれたの。
 

 

 

 

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〈 雛鳥 〉
〈 追加 〉
〈 後押し 〉

 

終わってしまえばいいと呪うまで

 大人の取り決めた枠から、生活を供給されている子供は逃れられない。
 それが例え、子供たちの中に確固たる意思があったとしても。

「……なんで」
 夏の夕暮れ。公園のブランコに座った男の子が、絞り出すような声を出した。
 女の子は黙ってブランコを二往復漕いで、ポツリと呟く。
「お父さんとお母さんが、そう言うから」
「それは、聞いた」
 男の子が苛立って、足元の砂を踏み躙る。
「なんで。だって、決断するには早いだろ」
「うん、私もそう思うよ。けど、私が心配なんだって」
 取り残された昭和の時間。背の高い金網で囲まれた街。
 世界に蔓延する奇病は、人々を狂わせ、生きる屍へと変貌させていた。
「まだ、まだ三人しか感染していないし、被害だって少ないじゃないか。役所も警備を増やすって。なにより、外の方が……」
 だって、まだ。男の子は駄々を捏ねるように繰り返す。
「きっと……襲われたのが私じゃなければ、この街を離れる必要もなかったんだろうね」
 胸を抑えて言った女の子の言葉に、男の子は黙ってしまった。
 女の子のブランコはいつの間にか止まっている。
 蝉の鳴き声も。
 夜の静けさが街を包み、帰ることを急かしていた。
「やだなあ。やだよ、貴方と離れるの」
 泣くのを我慢するように女の子が小さな声を出す。
 男の子は黙ってどうするべきかを考えた。女の子を泣かせないために、離れないために。しかし、男の子にはどうすることも出来ない。
 子供、だから。
「……感染する、危ない病気とか、大人の正しい取り決めも、僕が子供で何も出来ないのも、何もかも、全部全部」
 男の子が、暗くなった地面を見ながら、言い続ける。
「くだらない」
 消え入るように、無力らしく。男の子は呟いた。
「そうだね。本当に」
 本当に、くだらない。女の子は声には出さないまま、空を見上げる。
「でも、だけど、貴方は何も悪くない」
「何も出来ないよ、僕は」
 女の子が立ち上がり、ブランコに座っていた男の子の頭を胸に抱き寄せた。
「いいの。いいんだよ。もう、諦めようよ」
「でも、だけど」
「いい、の」
 嗚咽混じりの女の子の声を聞き、男の子が泣き始める。
「や、やだ」
「私だって、嫌だよ」
 暗闇と門限と大人の取り決めが、二人を追い詰めていた。
「離れるぐらい……なら、いっそ世界なんか、終わってほしい」
 涙を流し、女の子が世界の破滅を願った。
 女の子の願いを引き金に、男の子の思考が淀む。
 大切な人が襲われ、離れ、泣いている。理不尽な不幸をもたらす世界を、男の子は心の底から恨み、呪った。

 この肯定するしかない、くだらない世界を。
 

 

 

 

 
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〈くだらない〉と呟く男の子に〈そうだね〉と返す女の子。

 

エスシーエス

 砂浜が僕の足を取って、踏み出す足が重かった。
 振り返ると彼女が少し遠くてしゃがんでる。白いワンピース風の水着が、黒と藍の景色の中で主役になっていた。
 この海岸には、僕らしかいない。
 雨の日に海に行こうだなんて我儘を言う彼女がいて、夕方海に着く頃に雨が綺麗に晴れ上がる。そんな〈普通じゃない〉が揃って、僕らだけの海岸に辿り着く。
 風が鈍い音を立てて、砂浜を叩いた。もうそろそろ日が沈む。
 もう一度、僕は振り返った。相変わらず、彼女は夢中になって貝殻を探している。
「ねえ、思い出にさ、二人で貝を作ろうよ」
 二枚貝の片割れを別々に探して、僕らだけの二枚貝を思い出に作りたいと彼女が言った。
 正直面倒くさいし、それが思い出になるのかと少し疑問に思う。どうせ時間と共に捨ててしまうだろうに。
 だけど、あの笑窪を浮かべて無邪気に歯を見せながら提案する彼女を、拒否する彼氏がこの世にいるのか。
 いたらそれはきっと、あの子の彼氏じゃない。あの子の我儘を拒否するだなんてことは僕が許さない。なにより、あの子の彼氏は僕だ。
 つまり、何かと言うと、僕は彼女に心の底から惚れ込んでいた。
 また心配になって振り返る。遠く、手のひらに乗りそうなほど小さくなった彼女が、僕のことを見ていた。目があったことに気付いた彼女が大きく手を振る、多分笑窪のある顔で。僕と離れている間は、危ないから海に入ってはいけないって言ってあるけど……心配なさそうだ。
 沈みかかった陽が海面に揺れて少し眩しい。ここら辺で良いのかな。見下ろした感じ、貝は全然見当たらないように見える。しかし、しゃがみこんで目を凝らせば、幾らか砂の中に埋もれている貝が見えた。まるで夜空の星だ。
 引き抜こうと手を伸ばすが、なかなか引き抜けないでいた。昨晩彼女に切られた深爪がここに来て不利になる。引き抜けたかと思いきや割れた貝だったりして、首をうな垂れて落ち込む。
 困り果てた僕は、手を後ろについて座り込んだ。夕空に深爪した片手をかざしてみる。
 二枚貝を思い出にしようとするのはわからないけれど、こうして彼女が深く切った爪は、どこか愛おしい。
 彼女に言ったら理解してくれるかな。してくれなくてもいい。「なにそれ」って、あの笑顔を見せてくれるなら。
 後ろに置いた手が、硬い何かに触れた。拾い上げてみれば綺麗な形をした、黒っぽい二枚貝の片割れ。
 彼女が喜んでくれる。そう思った僕は思わず、すぐに後ろを振り返った。
 夕闇が伸びて、彼女の姿が見当たらない。
 僕は彼女がいた場所に小走りで向かった。遠くて見えないだけ、近付けばそこにいる。帰ったら塩焼きそばを一緒に食べよう。帰り道は何処かに寄ろうか。夕暮れの砂浜が綺麗だね。やっぱり、好きだ。
 そんなことを、虚しく思って。


 彼女はそれ以来、雨上がりの海以来、行方不明のままだ。
 片割れの貝を、残して。

 

 

 

 

 


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二枚貝
〈 深爪 〉
〈 笑窪 〉
 

迷子の先は

 参ったな。これは、どうしたことか。
 さっきまで、さっきまで私は……ああ、そうだ。私は職員室で、明日の実験を含めた授業の準備を終えたばかりだった。
 午後八時のことだ。ついでに、桐山に「その、浅川さん……すみません」なんて、反省した犬みたいな調子で頼まれたから、あいつのクラスの準備もしてやった。後輩の頼みだからな、断れん。
 そう、さっきまで、一歩前まで、私は勤めている学校にいた。
 それがどうだ、今じゃどうした。
 鳥肌が立つほどの湿った空気。遥か遠くから響く風のうねり声。心の不安を煽るような不気味な松明の灯り。長く続く、苔の生えた赤煉瓦の通路。
 なんだここは。私は、何処に来てしまったのだ。
 私は恐る恐る、足元にある苔を踏み躙った。少しぬめり気と弾力のある苔が、靴底をを通して伝わる。
 どうやら、この悪夢のような状況は現実らしい。
 私は一歩一歩、足を前に踏み出して行く。不規則に並んだ松明の灯りが、前方の暗闇を照らしていた。
 帰りたい、恐ろしい。そう言った感情を踏まえて、ここが何処だか知りたかった。この場所がどこかわかれば、恐怖を拭え、帰路が明確になるかもしれないからだ。
 しかし、窓も空もない。わかるのは前方と後方に道が続いてるだけ。
 これはまさか、迷った罰なのか。
 足を踏み出して行く中で、通路の形に変化が起きた。道が二つに分かれている。勿論、どちらがどこに繋がっているかだなんて、親切なことは書かれていない。
 私は少し迷って、左の道を選んだ。左利きだからだ。
 そうだ、妻はいつも、私を考慮して右側に寄り添ってくれていた。
 また分かれ道。迷い、迷って私は、右を選ぶ。
 まるで迷宮みたいに道は何度も分かれた。行き先がわからない分かれ道にぶつかるたびに、私は酷く迷った。
 あの時のように。
 夫として、何となくわかっていた。その日のうちに妻が病気で死ぬと、長年連れ添った妻の衰弱ぶりに、頭のどこかで確実に理解していた。しかし、教師として、大人として。私はその日、教鞭をいつものよう執っていた。
 朝礼から昼まで、ずっと迷っていた。今帰っても間に合うんじゃないかと、やっぱり来るべきではなかったのではないかと。
 こんな男の末路は決まっていて、妻の死に目に、結局間に合わなかった。
 ふと、足元を見ると、最初に踏み躙った苔がそこにあった。どうやら戻ってきてしまったらしい。
 私は呆れて笑ってしまう。迷ってこれじゃあ、救われんな。
 誰かが〈先生〉は「先に生きる人と書いて、先生」と書くと言っていた。ああ、先に生きる者が迷っていては、教師は務まらないだろう。
 ふと松明を見ると、火が風に瞬いて消えていった。どうやら迷っている暇は無いらしい。
 私は出口に辿り着くため、この罰の迷宮の中をひたすら突き進むことにした。
 迷うことを、棄てて。

 

 

 

 

 

 

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〈 先生 〉
〈 迷宮 〉
〈 瞬く 〉

不器用に先を

 下の階から、家のインタホーンを鳴らす音がした。
 私は反射的に少し湿った布団を頭に被る。嫌な予感がした。午後五時、学校終わりに人が立ち寄るような時間。
 嫌だな、誰にも会いたくない。誰とも、話したくない。
 布団にうつ伏せになって、耳を澄ました。母が廊下を走って玄関を空けた音。母の大袈裟な声。落ち着いた男の人の声。
 ……桐山先生だ。
 私はすぐに部屋のドアを見た。鍵はかかっている。でも、きっと、先生は家の中に入ってくると思う。
 浅川先生じゃないだけマシだったのかもしれない。でも、それにしたって、嫌だ。聞かれたくない、答えたくない。
 外堀に埋まったものだけを見て、私を学校に連れ戻そうとするんだ。
 学校へ行く大切さを長々と諭すに決まってる。
 大切なこと、知ってるよ。そんなこと知ってるもん。
 それをわかっていても、学校に行けないってことを、先生はわかってくれないと思う。
 先生からしてみれば、私は不幸を拗らせた女子中学生でしかないから。
 私、半年前の春まで、みんなと一緒にお弁当食べて、その週のドラマの話で盛り上がって、平凡で幸せな女子中学生だった。
 平凡な女子中学生だからこそ、放課後に告白されたりして。
 同じクラスの、黒部君。彼からの告白は嬉しかった。けど、少しだけ背伸びしたくて私、黒部君のことを意地悪にも、断ってしまったの。
 黒部君、どうして、なんで、って言うばかりで、その時は少し良い気分だった。だけど、涙目になった黒部君が、言い寄って、私に無理やりキスをした。
 それを偶然、同じクラスの子が目撃したらしい。勿論、その子は友達に「見ちゃった」って話した。きっと、私だってそうする。でも、その友達は誰かに話して、その誰かは誰かに話す。
 噂はすぐに広まった。
 人の目が、身体の中に入り込むようだった。何より嫌だったのは、付き合ってると誤解されるよりも、男子からは性的な目で見られて、女子からは変態扱いされることだった。
 無視され、物を隠され、通りすがりにクスクスと何か黒く話され。
 無理だった。
 限界だった。
 突然多くのものを失って、突き落とされて孤立した。
 ……先生は、何処まで知っているの?
 女子がグループから外される深刻さを知ってるの。ご飯が喉を通らないほどしんどいことを知っているの。この半年の間に、身体が、お腹が重くなって戸惑っていることを知っているの。リストカットがやめられなくなって、もう半袖を着れないことを知っているの。
 先生は、何も知らない。
 女子中学生を何も知らない。
 この迷宮の中、私には辿り着けっこない。
 先生は、もう大人だから。
 だから話したくない。知ったつもりで私を怒らないでほしい、それだけ。
 階段を、ぎしぎしと登る音が聞こえて、私の部屋の前に人が立った。
 こんこんと、重たい、ノック音。
「あー……犬佐さん、いるかな。いたら、返事してほしい」
 低く、しかし人の目を気にするような、弱気な声。
 私からしたら、懐かしい声だった。
 一体、何から話すつもりなんだろう。何を知ったつもりで、諭すのだろう。
 そう思った時、先生はドア越しに、いつもより弱気な声……消え入りそうだけど、確かに届く声で、私に尋ねた。
「なにがあったか、なにが辛いか、良ければ先生に教えてくれないか……? 先生、さっぱりわからんから……」
 私は唖然とした。瞬く間に、迷宮を崩されてしまった気分だった。
 〈先生〉という字は「先に生きる人と書くんだよ」だなんて、私に教えたのは誰だろう。
 ドアの前に立つ不器用な人に、なにも解決しない中、私は思わず声を出して笑ってしまったのだ。

 

 

 

 

 

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〈 先生 〉

〈 迷宮 〉

〈 瞬く 〉

一人家焼肉

 一人暮らしの男が、家で寂しく焼肉をしちゃいけないなんてルールはない。
 むしろ一人だからこそ、家だからこその自由がそこにある。買う肉、焼く肉に文句を言うヤツもいない。焼くペースをいちいち気にする必要がない。焼きそばの気分になれば、突然嵐のように焼きそばを投入されることも許される。冷蔵庫の余り物を適当に焼いて食うのも、節約を兼ねて楽しい。好きな酒と一緒にテレビを見ながら焼いて食うことも幸福。一人家焼肉は最強なんだ。誰にも文句を言わせない。
 難点があるとしたら、文句を言うヤツがいないこと。それはつまり、とても寂しいということを意味する。何より、ホットプレートの洗い物がしんどい。
 結局のところ、家焼肉に誘うヤツがいない。
 家で焼肉をしようだなんて思う日は、四ヶ月に一回、自身にご褒美を与えたくなった時だ。ちなみに、家焼肉をご褒美として自身に与えたくなったときってのは、心に相当キてる。
 今日はそんな、俺へのご褒美の日だ。
 買ってきたのはハラミ、ホルモン、焼きそば、そして今日の主役ラム肉。久しぶりのラム肉は絶対に美味い、今日食べるべきだと脳で直感を得た。海鮮系も買いたがったが……いまいち惹かれるモノがなかったし、ラム肉の臭みには絶対に合わないだろう。今日は無難に王道と見せかた洒落家焼肉だぜ。
 冷蔵庫に買ってきた肉を入れ、台所戸棚にあるホットプレートを取り出す。黒をベースに赤いラインが入ってるカッコよくてイカしたヤツなんだが、こいつには秘密がある。
 安全設計システム。なんとこいつは、肉が置かれるまで余熱を保ち、それ以上の温度にならないよう設計されているんだぜ。高温火傷させないためだってさ、優しいヤツだろ。この手の安全設計をフールプルーフというらしい。まあ、それに関してはあまり俺に関係ない。こいつの面白いところはこのフールプルーフの延長線上のシステム、自動焼き加減だ。肉が置かれると焼き加減を感知して、火力調整を自動でしてくれるんだ。便利だろう。たまに他の肉の焼き加減に引っ張られて狂うことがあるが、まあ、たまにだ。基本的には機能する。
 熱く長々と語ったが、つまり楽しみでしょうがない。酒は用意した。観たい番組の五分前だ。ホットプレートはコンセントに繋げて余熱を保っている。
 あとはこのラム肉を机に持っていくだけ。思う存分焼いて、腹いっぱいになってやる。
 そう、思った瞬間だった。
 右ポケットに入っていた携帯が振動した。俺は左手にラム肉を持ち替え、右手をポケットに入れる。しかし、携帯を取ることに気を取られ、足が扇風機の電源コードに絡まってしまった。
 体勢が前のめりに崩れる。左手はラム肉が乗った皿を無意識に離さず、右手はポケットに入れたままだった。ラム肉が舞うのと共に、顔が綺麗にホットプレートの中へと入る。右頬から着地し、痛えと思った一瞬の衝撃の後に、チリッとした熱が俺を襲った。
 咄嗟に顔を上げるも、右手はポケットに入れたまま、左手は……本能的にホットプレートの電源コードを抜こうと探し暴れ回っていた。上げた顔が再びホットプレートに戻される。厚みのある熱を頬で感じ取り、俺は確実な火傷をした。
 痛みと熱から逃げる為、今度こそ左手を地面につける。
 だが、同時に暴れていた足が、俺の後ろにあった本棚を蹴っ飛ばしてしまった。
 本棚が転んだ俺同様に前のめりに倒れ、俺を潰し、ホットプレートへと押さえつける。
 両腕は本棚の中に肘ごと組み込まれ、動かせない。
 ホットプレートが俺の頭を大きな肉として感知し、全体が焼きあがるように火力調整を始めた。頬に穴が空くような激痛が走り、目はカスカスに乾いて開けられない。
 じわじわと焼かれていく。頬の感覚は無くなっていく一方で、何処の箇所かわからない激痛だけが頭を揺らす。
 叫び声を上げようとも誰も助けてくれない。全ては一人で始めたことだ、当たり前だ。
 熱い、痛い。
 第三者であれば笑いたくなるような不幸の中、俺は一人家焼肉を後悔していた。

 

 

 

 


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フールプルーフ
〈 ホットプレート 〉