「おはよう」
誰もいない台所に、私の声が響いた。机の上に、値引きされたあんぱんだけが置いてある。
返事を望んだわけでは、なかった。ただ一言「おはよう」と言えば、私は朝に生きていると実感できるだけ。
「いただきます」
マグカップに牛乳を入れてあんぱんを、一口齧った。あんぱんの、乾いた食感が口に広がって……その味がする前に、私は牛乳で飲み込んだ。
「いってきます」
制服に着替え、私は家を出た。いつものように、高校に行って、みんなに「おはよう」と言って、昨日のテレビの話をしたりして、退屈な授業が始まって、お昼に他愛のない話をして、普通に、普通に、普通に過ごして。
私はなにがしたいんだろう、なんて、悩むフリをして。
――本当は、したいことばかり、なんだけどなあ。
そんなことをしたら、変だって、嫌われるって、迷惑がかかるって、わかってるから。しないんだ。
でも、願望の想いは、確実な重みを持って、溜まっていく。
「ただいま」
まだ、母は帰っていなかった。今朝、あんぱんと一緒に置いてあった、小銭を持って、私は近くのスーパーへと出かけた。
日が沈みきって、紫色の空が、街に広がっている。
温度のない気持ちの良い風が、頬を、髪を撫でた。私はその心地良さに、少し……ううん、とても、悲しくなって、顔を伏せてしまった。
夜ごはんは、菓子パンを何個か買った。少し、その甘さが必要だったから。
今度は、なにも言わずに帰った。母はいない、時計を見れば八時を過ぎている。きっと、今日も男の家に泊まっているのだろう、と思って、多めにパンを買って良かったと、どうでもいい安堵で、なにか考えを濁した。
学校の宿題をして、SNSを覗いて、呟いて、深夜一時。私はいつものように、母の部屋に行き、戸棚を開けた。
私を、安心して眠らせてくれる、錠剤。
私はそれを、誰にも言うわけでもないけど、その薬の名前をもじって、ルーシーと呼んでいた。
いつものように、一粒飲んで、布団へ、潜る。
ルーシーってなんだか、光に満ちた優しい響きがするから、気に入ってる。
私を、安心させてくれる、幸せにする、光。
それからずっと、私の気持ちを束縛した日々の中で、放ちたい気持ちは日々積もっていく。
たくさん本が入った紙袋のように、重みは増していく。
私は今更、その紙袋を持ち上げようとして、ビリビリに、破けてしまったんだ。
もう、遅い。
その日の晩は、なんだか、とっても心地の良いものでした! たくさんの、たくさんのルーシーが私の喉を通って、たくさんの光に頭が満ちています。世界が揺れています。ああもう、なんだかここに本棚があるのも邪魔だと思って私はなぎ倒します。お皿だって割っちゃおう! 押入れだって蹴っ飛ばそう! 教科書だっていらない。もっともっと、自由に! なんだか歌いたい。なにか、作りたい! ああ、気持ちの良いことがしたい!
「気持ちよくして!」
「紙袋破けちゃったよ?」
「ねえ、助けてよ!」
あんぱんみたいな、優しさを、私に差し伸べてよ!
「お母さん!」
……ぐちゃぐちゃになった部屋の中、私は一瞬ぼーっとして、全てを察した。窓の外は少し夜明けを感じさせている。なんだか、心地が良い。あんぱんも、紙袋もなんだかよくわからないけど、また貰える気がして、安心して、私は眠りにつく。
「おやすみなさい」
おやすみ。
妖怪三題噺「餡パン 紙袋 ルーシー」