kurayami.

暗黒という闇の淵から

くたびれた男

 星一つ無い、底冷えした夜だった。
 紅い草原の中。俺は広く狭い水溜りの横に座り込んだまま動けないでいる。それもそのはずだ。散々今まで歩いて来たのだから。深く腰をかければかけるだけ、簡単に浮くことは無い。どうやって立ち上がってきたっけな。
「疲れましたか」
 若い声がした方を見る。水溜りの向こう側、青色のワンピースを着た〈少年にも少女にも見える子供〉が立っていた。
「ああ、少しな」
「なら心ゆくまで休んで行ってください。僕も疲れていたので」
 そう言って子供は立ったまま、ワンピースの裾を揺らす。そんな疲れただなんて、まだ若いだろうに。
 いや違うな。何か忘れている……そうか、なるほど。
「おい、君」
「はい」
「こんばんは」
「え、あ、こんばんは?」
 する挨拶を間違えただろうか。子供はそれっきり考え込み始めて、黙ってしまった。それにしてもここのところずっと寒いな。男一人ってのも大きな原因だが、まるで夜全体が哀しんでいるみたいだ。
 もっと優しいものだろう。賑やかじゃないな。
 かと言って前向きに上を見上げても、見る星も無い。自然と下を……水溜りを見つめてしまう。本当に広く狭い水溜りだ。限りなく広いかと思えば、人と人がすれ違うぐらいの規模。よくよく見れば滑稽で青く綺麗で、緩やかな揺らぎを雨粒が落ちているかのように点々と起こし続けていた。
 暖かい陽の中で空いた電車の振動。少年が森の中で見つけた秘密のせせらぎ。サプライズを隠す少女の目の動き。美人シスターが灯した蝋燭の火。優しさに殺人を犯した男の心拍音。
 ほう、これは。良いツマミになりそうだ。酒そのものが無いのが悩ましい。
 まあ向こうで揺らいでいても、俺には何も響いてくれないのだが。
「懐かしいですか」
 子供の語りかけた声が自然と俺の耳に入ってきた。透明で、不思議な声だ。
「まあな。早いとこ帰りたいよ」
「すみません。力不足で」
 申し訳なさそうな子供の顔を見て、別に君は悪くないだろう、と事実とは異なった事を言いそうになる。いや、しかし、参ったな、そんな顔はされたくない。
 ああ、そうか。なるほど。
 俺は深く重い腰を、歳相応の呻き声と共に精一杯上げる。
「行くんですか」
「水溜り見てんのも、飽きたから」
 お人好しだったことをすっかり忘れていた。ずっと損な役を選んで腰を上げてきただろう。人を楽にしてきただろう。今回の件もそうだ。
 立ち上がってよろめく俺を、子供が今度は心配そうな顔をして見ている。
「まだ、癒えてないですよ」
「良いんだよ。迷子だからっていつまでも迎えを待ってられない。大人だからな。帰る道は自分で見つけないといけないんだ」
 振り返った先には暗闇が何処までも深く、口を開けて待っている。
 よろめき歩き続ける、草臥れた男の物語の結末なんて、良かった試しがない。
 

 

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

〈 よろめき 〉
〈 ゆらぎ 〉