kurayami.

暗黒という闇の淵から

白い露

「あ、そこ足場ないです」
 細い喉から出た女生徒の言葉に、男性教師は踏み込んだ足をサッと戻した。草むらと思わしき奥、深い暗闇の底に小さな石がカラカラと落ちていく。
 東京都某山、断崖絶壁の道。
 男性教師が狭く細くなった足場を見て、不安そうに狼狽えた。
「……これ本当に」
「大丈夫です、大丈夫ですよ。方角的にはこっちなんですから。先生は気にせず、進んでください」
 女生徒は落ち着いた様子で男性教師を励ます。
 男と少女。二人はただの、校外学習の最中だった。私鉄の終点から歩いてすぐの山は誰でも簡単に登れるようにと、山頂までの道を舗装されている。歩いて二時間のコース。道を逸れて余程奥の方まで行くことが無ければ、そう迷うことがない。
 逸れて余程奥の方へ、行かなければ。
 山頂での自由時間、ふらっと別の下山コースへの道へと入る一人の女生徒の後ろ姿。あの時すぐに引き止めていればと、男性教師は電波の入らない携帯電話を強く握りしめて後悔する。
 山の魔力に誘われて、迷い込んだ女生徒。
 探し追いかけて、二の舞になった男性教師。
「先生、疲れましたか?」
 女生徒が後ろから覗くように、心配して男性教師に尋ねた。
「いや、僕は大丈夫だよ。お前こそ疲れてないか?」
「疲れました」
 上がっていた肩を下げて、女生徒は不服そうに答える。焦り困った男性教師は辺りを見渡し、すぐ先に腰をかけれそうな石を見つけた。
「少し、休憩しようか」
 餅が潰れたように広がった石に座った二人は、突然蓄積された疲労感に襲われる。慣れない山道と見えない目的地、続かない会話は確かに二人の精神を追い詰めていた。
 座り込んだ二人は、なかなか腰を上げれない。
 焦げた色をした腐葉土の地面、黒いシルエットの木々、深い緑の葉は雨上がりのように露に濡れていた。それは例外なく男性教師の頬も、女生徒の白く柔らかい太腿も。
 男性教師は、視界に入った太腿に吸い寄せられるように、横目に女生徒を見た。ませて整えた真っ黒な髪は、長い登山道の中で乱れている。可憐でまだ幼さの残る顔立ちは全てのパーツが小さくて、その中でも唇はまるで弱くて危ない。華奢な身体には程よく肉が付き、女生徒が動くたびにどこかしらに弾力を示していた。
 人気の無い山道の中で、汗と露混じりの雫が女生徒の首から流れ落ちる。
 男性教師は理性というものを再認識する。大人として、秩序として、社会としての、理性。
 女生徒の動き一つ一つに男性教師が揺れ動く中、危なげな唇が、ゆっくり開いた。
「ねえ先生、これからどうしましょう」
 不安そうな目と、色気を孕んだ声で、確実に男を濡らして。







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〈 断崖絶壁 〉〈 校外学習 〉

景色

‪ 友達が住んでいる団地、細い夕空、飛んでいく白いビニール袋に目を奪われる。‬
‪「……くん、なに見てるの?」‬
‪ 先にいた友達が振り返って、僕に聞いた。‬
‪ なにを、見てる。空をクラゲのようにふわふわと飛ぶ白いビニール袋……それだけ。ただのビニール袋が生き物のように動いていて面白かっただけ。‬
‪「ううん、なんでもない」‬
‪ そう言ったのは、つまらない嘘だった。それでも目に映る事実の景色は色鮮やかで、夢と好奇心に満ちていたのは間違いない。‬
‪ 夏の石階段に落ちたタマムシの死体。僕らの秘密基地へと続く雑草だらけの路地裏。誰も行ったことがない屋上を開ける銀色の鍵。日付を跨ぐ時間に親に連れられたコンビニ。自転車で初めて行く隣の隣の町の商店街。‬
‪ 新鮮と発見。日に日に感動を見つけては心が躍って、毎晩毎晩明日が楽しみだった。放課後の行き先に迷っては、傷になるような後悔なんて一度も無くて。‬
‪ 僕の世界には、素敵が満ちていた。‬
‪ 中学校高校と上がってくに連れて、行ける場所と遊ぶ幅が増えた。ゲームセンターに入れるようになって、友達が何で遊ぶかを自然と覚えていたっけ。喫茶店で初めて友達の話を真面目に聞くようになって、他人への関心が増していったんだ。‬
‪ みんな、なにかしらの悩みを、必ず抱えている。‬
‪ 聞いてみれば恋の悩みが多くて、とても興味深かった。好きな人がいて告白が出来ないという人がいたり、どうしたら好きな人に好まれるようになるかと悩む人がいて。自身に経験が無いのも含めて理解が出来ない分、興味が湧く。‬
‪ 将来、どんな恋人が出来るんだろう。‬
‪ みんなの悩みは決して、綺麗で浅いモノだけじゃなかったけれど、同じように悩んでみたいと思っていた。だけど、いつか大人になれば素敵な恋人も出来るし、好奇心を刺激する景色をもっと知れる、白いビニール袋を見れる。‬
‪ 疑いもせず、そう思っていた。‬
‪ 真実。世界は決して、素敵に満ちていない。‬
‪ 早朝深夜に肉塊を運ぶ中央線。自身を守るための陰口。水商売あっての性の均衡。生ゴミに埋もれた過去の思い出。吸い殻に込めた妥協した将来。‬
‪ ああ、こんな景色だったかな、俺の世界は。‬
‪ 大人になってみれば、白いビニール袋は偏ったコンビニ食が入っている。毎日が生きるためだけに過ぎていって、虚無を孕んだ生活が転がる。‬
‪ この時間はまるで、あの頃の無知な〈僕〉を否定して、汚くて淀んだ景色を目に見る〈俺〉自身を肯定する。‬
‪ もう、戻れない。だけど、夢と好奇心が消失して戻れなくなった今でも、目を奪われるものがあるんだ。‬

‪ 休日の夕方、二度寝から覚めてベランダから見える、焼けた夕空。‬

‪ あの頃はなんとも思わなかった、赤と黒のグラデーションの景色に俺は、胸が苦しくなる。‬
‪ ‬
‪ ‬


‪ ‬
‪nina_three_word.‬
‪〈 慮る 〉‬

十月末のコスモス

 私が変わらなければ良い、それだけのこと。
 それだけのこと。
 ただの、女子高生の一恋愛に過ぎない。一年と少しの片想いの間、私は心の底から手を伸ばして、彼を求め続けた。恋人という形になった今だって、気持ちは変わらない。大好きで大好きで、一回だって想うことをやめたことがないぐらいだ。
 私の真心である〈大切で愛おしい想い〉を、彼は知らない。
 彼に対して、ずっと〈それなりに好きなフリ〉をしている。
 だって恥ずかしい。そんな沈んだ重たい想い、知られてしまえばきっと私は彼の顔を、まともに見ることもできない。いつだってツンケンして、彼の会話に興味を示さないフリをしている。彼からしてみれば、いまのわたしは恋愛慣れしてない初心な女子高生でしかないんだから、可愛くない。
 けれど、隠すようなフリをしていたのは、正解だったようで。
 いつからだろう。夏休みを終えてから、暑さが失われてから、最後の文化祭を終えてからかな。なんとなく気付き始めていて、完全に自覚したのは……してしまったのは、十月の末の頃だった。
 彼には今、私以外に好きな人がいる。
 いや、今も。
 誰かがそう言っていたわけじゃないし、彼に好きな人がいたって聞いたこともない。確証なんて何処にもない。それでも、わかる。私に対して向ける〈それなりに好きなフリ〉が、フリではないこと。本当にそれなりでしかなくて、意識は何処か別の一点を見つめていること。
 一緒にいるとき、なにか特定の景色を見たときの、彼の表情。思い出すように思考を止めて、切なそうで狂おしそうな表情を隠している。私に見せたことのない表情。綺麗に広がる花の群生を見たときが、一番多い。
 対して私には、まるで安心したような表情を向ける。悪夢から覚めた朝のように安堵して、それでいて現在を必死に肯定しようとする。私という恋人を見ている。
 ねえ、誰を見てるの。
 誰でも、いいけれど。
 気にならないと言えば嘘になる。好きな人の好きな人なんだから、その人のようになりたいと思う。でも、だからと言って、私の〈大切で愛おしい想い〉は絶対に変わらない。
 そう、変わらないまま、このままで良い。
 彼にとって私が朝のような存在でいられるなら嬉しい。変わらないことで怯える彼と救いたい私、二人の調和になるのだったら本望だ。
 ただ、ゆめゆめ、忘れてはいけない。
 私の恋がまだ、成就していないことを。私は彼に愛して欲しいこと、私だけを見て欲しいことを。
 一緒にいられるその先、彼をモノにできる、その日まで。


 

 

 

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〈 コスモス 〉

〈 ゆめゆめ 〉
 

 

希望座標、往生の果てに

 少年と少女は、困り果て、立ち往生していた。
 その座標は、何処にも見つからない。何日、何年、星に辿り着くような遥かな時間を探し続けても、欠片も破片も見つからない。実体がないように、幽霊のように、掴むことすら、出来ないまま。
 しかし、それでも必ず何処かにある、二人はそう信じていた。
 クリスマスイブの日、少年少女が辿り着いたのは、音が消えたエメラルドが揺れる海上。全方位に広がる地平線は、ただただ、此処には何もない事を二人に訴えている。求めていた〈刺激によって怠惰を遠ざけた、確かな精神の安定〉なんて、何処にも見当たらない。
 心を動かされることで、不安定に揺れる情緒を、安定させれると思って。
 バレンタインの日、少年少女が辿り着いたのは、時間の先に荒れ果てた赤と黒に塗れた山頂。噴火口から溢れる固形物混じりの液体が、山の斜面を濡らして跡形もない。もちろんそこにも〈愛情から生まれる、永遠にも近いような心の安らぎ〉は、温度の端に、痞える空気にも存在することはなかった。
 触れたいのは、孤独で寂しくて、空いた穴を埋めたいから。
 誰かのバースデー、少年少女が辿り着いたのは、モノクロームに沈んだ無人の街。気配というものを失った街角は、住人が築き上げた思い出を一つ残らず過去にしている。〈誰しもが死なず離れない、平凡で有り触れた日常による安心〉は、少年少女は触れることすら叶うことがなかった。崩れそうで終わることのない街から、二人は言葉を交わすこともなく去っていく。
 決して変化しない時間の中で、哀愁と恐怖に関わらないことを、当たり前に望んでいる。
 だけどそれは、一向に見つからないまま。ついに探す場所をなくして、世界の何処でもない場所で、二人は立ち往生した。
 あるはずの希望座標。絶対の〈安定〉〈安らぎ〉〈安心〉が、その座標には存在するという。涙も血も流れることはない、病にかかり誰かとさよならする必要もない。そんな希望に満ちた世界の、座標。
 きっと見逃したんだよ。そう笑いあって、少年と少女は再び歩み始めた。そうやって無いことを疑わないのは、二人にとって、世界は光そのものだから。生きている限り、疲労や苦悩から解放されないなんて、おかしいと純粋に思えるから。
 透明で、汚れ知らずな想いの原動力。絶対に安全だって言える座標を、全ての痛みから解放された場所を探し続けて、歩みを止めない。
 遠い未来、終着点で二人が、大人になるそのときまで。

 

 

 

 

 

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〈 往生 〉〈 安全 〉〈 座標 〉

 

原稿薬

 背中の滲んだ汗に、俺は起こされた気がした。
 携帯の時計を見れば深夜一時過ぎ。一瞬、今日明日のことを忘れて、頭の動きが止まる。ああそうだ、仕事から帰って明日が休日なのを良いことに、ベッドに倒れ込んで休んで、そのまま。
 硬いシャツが肌に擦れて、汗で湿って、気持ち悪い。
 いや、そんなことより時間を無駄にしてしまった。中途半端に身体を休ませてまどろっこしくなるぐらいなら、疲れを引きずってでも身体を動かせば良かった。こうして意味の無い罪悪感に、悩まされるぐらいならば。
 原稿を進めるべきだった。
 台所に立って、腹に入れるべきモノを探す。冷蔵庫の中は殆ど空っぽで、戸棚の中の乾麺はいつの間にか消えていた。眠気覚ましにコンビニまで歩くのも良いが、結局疲労感が増して辛くなるだけだろう。
 結局、流し下の奥に突っ込まれていたコーンフレークを食べることにした。まあ、ちょっと早い朝食だ。そういえば今朝は何を食べたっけ、ああ、何も食べてないのか。起きて十分で家を出たから。
 疲れた身体に、朝は辛い。
 夕飯を準備する中。机の上に置かれた、書きかけの原稿が目に入った。
 元々一回限りの執筆の仕事だった。友人が人手が足りないからと、書いてくれと。滅多に来ない仕事なだけに、俺は二つ返事で引き受けたんだ。
 書き上がった原稿は、良いモノだった。
 何度も読みたくなる形。原稿の中の文章は、俺の中に存在する純粋な感情だけで構成されている。
 ただの文字列に俺は、肯定されているんだ。
 牛乳に浸ったコーンフレークがふやけた頃、味に飽きてテレビの電源をつけた。見たことも無い深夜番組、枠の中で、駆け出しのアイドルが水鉄砲を片手に走り回っている。乾いた感情が少しだけ、ふやけていく。
 食べ終わったら、プロットを見直して書き足そう。
 肯定される快感に囚われて、結局それ以降も原稿の仕事を貰っている。普段の会社に仕事に加えての執筆作業。身体はくたくたで、まどろっこしい日々。肯定を望むだけに、身体を擦り減らしている。
 見ていた深夜番組が、エンディングに入った。横に流れるスタッフロールと共に、アイドルが星座占いのコーナーを読み上げていく。
「続きまして、乙女座の貴方。恋愛運は昨日に引き続きイマイチ。金運はそこそこで、仕事運が急上昇! もしかしたら新しい仕事が貰えるかも?」
 食器を流しに置いて、俺は占いを鼻で笑った。
 八卦八段嘘九段、占いはデタラメ。……いや、占いがデタラメというより占いは決して、意思を犯す中毒性には抗えない、とでも言うべきなのかもしれない。
 完成して肯定の快楽に溺れてしまえば、次の執筆作業を望む。他なんて無い。
 原稿は麻薬だ。

 

 

 

 

 


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〈 コーンフレーク 〉
〈 まどろっこしい 〉
八卦八段嘘九段 〉

 

夕闇の中

 私は神様で無ければ、人でも無い。こうして少女の形をしているのは世の都合あってのことで、しかしそんな都合に踊らされていても、生きとし死ねる君らよりは上位の存在なんだよ。私は切り取られた夕焼けの時間の中に佇む、無彩色のアヤカシに創られた名前の無い概念でしかないけれど。
 故に長いこと、此処から世界を見てきたの。きっと、この先も定かではない〈全ての終わり〉も見届けることになる。もちろん、君のことも。
 ねえ、ところで君は、生きることには疑問を感じないのかな。
 命の創造と終焉を、繰り返し見てきた私からしたら、必死に前進する君らがとても愚かに思えるの。誰しもが非真実で虚構な〈生きる理由〉を前にぶらさげ、先にナニカがあると信じて闇雲に前進する。何も無いのに。
 だけど、生きようとすること自体はとても、偉いよ。特に真実の内側で見えない何かと戦い、文明を、文化を築きあげる君ら人は、とても。私には出来ないことだから、尊敬の念すら芽生える。
 愚かで偉くて、つまり、生きている君らはとても可哀想だと思うんだ、私。
 だってわざわざ始を与えられておきながら、終を強制されている。〈生きている〉は〈死のうとしている〉ことに同じだよ。長い長い自殺の延長戦にいるわけで、だけど自殺することから避けている。死を恐れているけど、有終の美を望んでいる。死を強制されたからと言って諦めて、恐れて、せめて良いものにしようと努力する。愚かで偉い、けど、可哀想だね。
 死んだら遺品が残るね。そして遺品が消えても記憶が残る。でも、そのモノの記憶を持つ全ての人が死んでしまえば、いよいよ何も残らない。「死んでしまえば何も残らない」から。長い歴史の中の文字になるだけ。魂は暗闇に幕を閉じて、肉体は世界とさよならする。
 魂を死後に変質させて、世の鑑賞者になれるモノも限られているし、理不尽な仕組みだよね。どうかな、君は私の話を聞いて、どう思ったかな。いたずらに、虚無を与えてしまったかな。
 ねえ、頑張らないで、死んじゃっても良いと思うよ。
 永遠なんて幻想で、死後誇れるなんてものは朽ちていく。それならこの先、必要以上に苦しむようなら、世界からさよならして離れても良いんだよ。
 まあでも、それが出来ないから、死が怖いから、意味を見出そうとしているんだもんね。私には縁の無い話だけど、難しい課題。
 あ、向こうの世界で鐘が鳴っているよ。もうこんな時間、君はそろそろ帰らないといけないのかな。私と君はもう、会うことはないと思うけれど、どうか理不尽な運命の元で私の言葉を思い出して、生と死の中でもがいて見せてね。
 私はずっと、この夕焼けの時間から、君が死ぬまで見ているから。

 

 

 

 

 

 

 
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〈 生きとし生きるもの 〉への言葉。

 

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 慎み生きてきた僕の恐れ。
 謹んで申し上げます。
 僕は常々思っていました。「人はおとなしく良い子であれば、怪我せず愛され忌み嫌われない」と。きっとそうなのでしょう。いつの時代も、トラヴルを起こさなければ、まず嫌われない。人の記憶の隅っこ、席に座って話しかけられている様子を思い出されたときに「悪いやつではなかった」と、可愛がられることは間違いないでしょう。
 僕はそれを信条にし、常々思い、慎み生きてきました。
 しかし、人として生きる上で、この信条は正解なのでしょうか。
 忽ち、忽ち、忽ち。
 夏から秋への季節の変わり目、冷たい風が去年の記憶を掘り起こす、そんな頃のことです。僕の友人であるA君の恋が、成就しました。とても嬉しそうに、告白のシーンを思い出して繰り返し語るAが微笑ましく、昼食のサンドウィッチがとても美味しかった事を覚えています。
 しかし次の週になって、僕は偶然Aの恋人の話を耳にしました。なんでもその恋人には酷い依存癖があり、消費し切り次第男を使い捨て、次の男に憑き移るというのです。この話は、クラスの中でも目立たず、尚且つ色んな人から度々相談されるKさんが教えてくれました。彼女は一度、僕に〈生に疑問〉を持っている事を打ち明けてくれた闇ある人なので、信用ができます。
 僕は酷いショックを受けました。親しい友人が哀しむ姿を想像したら、急に制服の内側が狭くなった気がしました。彼を救いたい欲求が、頭の奥の方から込み上げて来ます。しかし、信条に従うとなると僕には何も出来ません。ただ、友人が日々やつれていき、その貴重な青春の時間を泡にしていく景色を、僕は黙って見る事しか出来ませんでした。
 友人が捨てられたのは、真冬の中、指先が寒さに慣れた頃。
 忽ち、忽ち、忽ち。
 疑問に思う一方で、僕はAの恋人の生き方が頭から離れませんでした。他人を生贄にして、自身を傷付けず前進する、その様。
 自由。
 慎み生きてきました。慎み生きていく裏で、本心は浴槽に溜まり続けていました。本当は生物の肉体構造に心から興味があって、親にも誰にも迷惑が掛からないよう、専門書をこっそり読み耽っていました。物足りません。
 Aの恋人のように、自由に乱して生きる人間は、この世界に何人居て良いのでしょう。もしかしてですが、心からの、真の幸福を掴めるのは〈一線〉を越えれる事を気付いた者だけでは、ないのでしょうか。
 忽ち、忽ち。
 刺激に触れないように、自身の中にある衝動を抑える毎日です。トラウマを抱えた友人と昼食を取り、クラスの中でも比較的目立たず、良い顔をして慎む日々。制服を箪笥の奥へ仕舞う日まで、残り一年もありません。しかし、もし次に〈一線〉を越えた人物に次出会ったとき、積み上げてきた半生と、家族や友人たちを手放すことになるのでしょう。
 ええ、その時はきっと、僕の信条は忽ち翻ってしまうのですから。
 どうか、恐れと、好奇心に似た淡い夢に近い幻想のままであって欲しいと願う。
 僕を、翻らせないでくれ。

 

 

 


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〈 慎む 〉
〈 忽ち 〉
〈 翻る 〉