kurayami.

暗黒という闇の淵から

ブクロナイン

 適切な重さというのは、本人の都合だと思う。
 誕生日に合鍵というのは、渡す方からしたら諸刃の剣だ。信用は求められ、時に酷く拒絶される。都合よく場面を使い分ける生物は、きっとヒトだけだ。
 重いと思われるか、喜ばれるか。
 受け取った私は断然、後者だった。
「毎日、僕の帰りを待っていて欲しい」
 付き合ってもいない彼は、私の誕生日に、しれっと銀色の合鍵を渡した。
 池袋駅から徒歩七分、エレベーターで九階に上がって右端の部屋。
 キーホルダーも付いてない質素な鍵には、彼を抜きにしても、その物件的価値があった。
 もちろん、彼のことは気に入ってる。慎重なところ、探りを入れないところ、上手なところ、甘やかすところ、駅前に住んでいること、良いところに住んでるところ、綺麗な部屋に住んでいるところ。
 正直、誕生日はご飯を食べて解散だと思った。予想外で嬉しい踏み込みだった、彼にしては頑張ったと思う。えらい。
 その日は、もう場所が私の家の方に近いからという理由で一度家に帰り、改めて、今日から住むことになった。
 ああ、毎日丸ノ内線で乗り過ごしを考えず、ゆっくり寝て帰れるだなんて。合鍵を握りしめた私はこれからの毎日に心を躍らせ、エレベーターを上がる。
 インターホンをいつも通り押そうとして、ああもう、違うのにと笑って止めた。私は、私の合鍵を使い、部屋へと入る。
 中は暗く、彼の気配はなかった。早速、彼の「帰りを待っていて欲しい」という願いは叶えられそうだ。
 私は当面の生活が出来る大きな荷物を隅に起き、ベランダに出た。住宅街が作り出す、低い夜景が広がっている。ビル風が、髪をなびかす。
 私のもの、私のものだ。嬉しくなり、鼻歌混じりに中に入りリビングの電気を付ける。そうだ、ご飯でも作って待っていてあげようか。きっと喜ぶだろう。
 そう思ってキッチンへ行こうとしたとき、机の下に手帳が落ちているのが見えた。拾い上げて中を見れば、それはシステム手帳だった。
 思えば、彼は自身のプライベートや予定を話す人ではない。彼のことはあまり知らない。私が踏み込んで欲しくなかった分、聞かなかったというのもあるけど。
 私は、私はそういう人だから、と開き直り、彼のシステム手帳を覗き見ることにした。
『二月七日 待ち合わせ』
 私と出会う前の日付だ。女との待ち合わせだろうか。
『三月二十一日 誕生日』
『三月二十五日 準備完了』
 ここから、三ヶ月近く予定は書き込まれていない。あるのは『塩』だとか『醤油』だとか。手帳をメモ帳代わりに使っているらしい。
『六月二十八日 、 元食』
 元食? それにしても、味気のない予定の書き方だ。心無いというか。
『六月二十九日 新宿』
 新宿に予定があったらしい。そういえば、彼と出会ったのは新宿だった。
『七月三日 吉祥寺』
『七月十八日 神田』
 ……偶然だろうか、偶然もあるものだ。
『八月九日 甲府
 私は、思わず手帳を落とした。
 八月九日は、私が甲府の実家に帰った日だった。
 そして確か、七月十八日は、神田で飲み会だった。七月三日は、たぶん吉祥寺で遊んでいた。
 偶然、偶然。
 私は手帳を拾い上げる。
『八月三十一日 新宿』
 この日、初めて彼と、出会った。そう確か、合コンに出れなくなった男の子の代わりに。
『九月七日 待ち合わせ』
 彼とデートした日。
『十月十日 誕生日』
 私の、誕生日。
『十月十四日 準備完了』
 今日。
「ただいま」
 後ろを振り向けば、彼が爽やかな顔で笑って、立っていた。
「おか、えり」
 私は手帳を思わず後ろに隠す。見たことを、悟られてはいけない気がした。


……
『十一月五日 塩』
『十一月十二日 レモン汁』

『十二月二十三日 生』

『一月十五日 蒸し焼き』

 

『一月二十八日 完食』
 

 

 


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〈 合鍵 〉

〈 手帳 〉

 

歓楽街の女に

「ご、ごめんなさい」
 塾の帰り。入れ替わりで登校してきた生徒にぶつかって、求められてもいない謝罪が私の口から出た。求められてないからこそ、相手は何も反応見せず、教室の中へと入って行く。
 浮いた私の言葉が死んでいった。私は、唇を強く噛んでいた。
 外に昼の面影はもうなかった。ラブホ街の奥に存在する、場違いな塾からとぼとぼと出ていく。意味有りげな複数の男女の組が、私の横をすれ違っていった。
 塾の帰り道に、性へと向かう女を見るたびに、私は酷く嫉妬をする。
 女としての幸せにも、快楽にも。いや、それ以上に私は……
 道路を走るヘッドライドが一瞬私を痛く照らし、賑やかな雑踏が街中から鳴り止まない。
 また、口内炎が増えている。


 何度も何度も迷って、躊躇って、でも先に行こうとしていた。
 このままじゃいけないとわかっているのは、三年前からの〈私〉で。これまでの〈私〉で。今ここに存在している私だ。もちろん、このまま生きていくことはできる。できるけど、けど。そんなものは、心を硫酸に浸したように、ぴりぴりと痛くて、吐き気が込み上げてくる。
 でも具体的に何をしたらいいのか、何が正解なのかわからなくて、どうしたら歓楽街の女のようになれるのかわからなくて、私は考えて、考えて。
 結局、誰よりも頼りになる〈私〉が指し示したのは、ピンク色の剃刀だった。
 どうやら、私は死ぬことでしか、この苦痛からは救われないらしい。
 だけど、私に増えるのは道ではなく、躊躇い傷ばかり。
 手首何度刃を当て引いても、流れる血は私を殺してくれない。そればかりか、私を色濃くしていく。
 平行線を重ねたところで、痛みが力強く、思考を外していく。
 塾の宿題が頭によぎって、ああ、私は何処までも、歓楽街の女になれないことがわかる。死を指し示す〈私〉の存在が何なのか、理解していく。
 きっと、私は一生、自身を自由に見せることなんて出来ない。
 だから、やっぱり、私は躊躇いを越えてでも、私を殺さないといけない。私が存在している限り、救われない。
 私は口内炎を噛み潰し、力強く、剃刀を手首に引いた。


 星空の存在をかき消すような眩しいネオンの光。賑やかな雑踏と、性に浮かれる男女が、愚かにも高らかにも、歓楽街を行進していた。
 ふと信号に立ち止まったとき、横に昔通っていた塾の生徒たちが並んだ。楽しそうに喋っているその声が幼稚で、とても耳障りだった。だから〈私〉は、はっきりと聞こえるように、吐き捨てるように言ってやった。
「うるせえよ」

 

 

 

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口内炎

〈 躊躇い 〉

〈 示し 〉

雨舞台

 僕の晴れ舞台はいつも、雨だった。
 小学校のときの授業参観も、中学生のときのリレーも。雨男のそれとは違う。人に見せるときだけ、決まって雨が降る。
 雨音が、水溜りが、湿気が……僕の舞台を作る。暗く、湿った舞台。
 ああ、それはきっと、次の劇に相応しい。

 高校生活最後になる演劇部の劇は、ふざけたモノだった。
 誰が言い出したか、実際に雨の降る劇をやることになった。ホースでうまい具合に雨を作り出すと言う。許可する学校も学校だ。
 そして僕は、そんなふざけた劇の主役を務めることになった。まだ主役をやってないだろって。ああ、いい加減で適当だ。だけど、任されたからにはこんなふざけた劇でも成功させたくなる。
 それに正直、主役は嬉しい。
 人に目を向けて欲しくて入った演劇部だった。でもこの三年間、すぐに舞台袖に消えていくような脇役だけだった。パッとしないからと言って、あんまりだ。
 今回の脚本は、神代さんが書いてくれたものだった。しっかりと雨に沿った、救いのない悲劇となっている。その暗さに賛否両論もあったが、僕は好きな脚本だった。神代さんの書くダークな雰囲気が好みなのもあるけど、喜んだりするより、悲しむ演技の方が、僕にはお似合いだったからだ。
 根暗は、根暗らしく。
「この雨は、罪までも洗い流してはくれないぞ」
 僕は誰もいない舞台上で台詞を吐いていた。最後の劇だというのに、同級生たちは練習も早々に切り上げ帰っていった。この広い体育館には僕しかいない。
 神代さんが書き出した悲劇は、家族を殺めた彼女に苦悩する正義の男の物語。僕は愛と正義の間に揺れ、堕ちていく男を演じる。
「ああ、お前は哀れだ。だが、この雨が止む前にその罪を告白すれば、お前はきっと、きっと!」
 事件が起き、収束する最後の日。男が彼女を選び正義通す、雨降る夜。男は彼女に自首するように説得する。雨の性質をテーマに、物語は進展していく。
「悩むことはない、この雨はお前自身だ、この膨大な雨粒はお前の、お前の罪の意識だ」
 しかし、何故、神代さんは、人は、雨を嫌悪するのだろう。
 例え人の晴れ舞台に降っても、僕は雨を嫌いになれなかった。好きと言う程のものではないけど、雨は様々な物を押し潰して、リセットしてくれる。
 静かに街を濡らして、まるで大丈夫だよって、言ってるような。
「ああ、なぜだ、何処へ行く。俺を、俺を置いていくな!」
 僕の掠れた声が、舞台へと落ちていく。
 最後、正義と愛どちらも選べず得れなかった哀れな男を置いて、彼女は木漏れ日の向こうへと走っていき、舞台は終わる。
 雨上がりの木漏れ日は水蒸気に光が反射して、光のカーテンになると聞いた。
 まるで閉幕だ。

 きっと、当日は雨の予報。雨天決行のふざけた劇。
 根暗な高校生と哀れな男役に、贅沢な光の閉幕。
 一度外に出れば、大量の雨粒が僕に、拍手を送るだろう。

 


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〈 木漏れ日 〉

〈 掠れ声 〉

〈 哀れ 〉

〈 晴れ舞台 〉

臙脂色の傘

 今日も、あの子の傘はなかった。

 荷物の詰まった段ボールが日に日に増えていく。この街を離れるまであと、二日だ。
 所謂、一目惚れというものだった。あれは二年前の梅雨。今日みたいに紫陽花が喜びそうな、シトシトと雨が降る、梅雨の日のことだ。俺は冷蔵庫の中のビールが切れたことに気付き、買い物ついでに坂の下まで降りたんだ。水溜りに片足突っ込んで、雨という災害に対して殺意を抱いていた。些細な雨だというのに小規模な冒険をして、なんとかコンビニに辿り着いた。ああ、ちなみにそのコンビニ、最寄りのコンビニってわけじゃない。お気に入りのビールってのがあって、それがこの坂の下のコンビニまで行かないとないんだ。ついでに欲しい煙草もここででしか買えない。悪いのは最寄りのコンビニと、この化物坂だ。
 まあ、そんな悪態をついていたのも、その日までだったんだが。
 買い物を済まして、帰りの上り坂に嫌気がさしていた俺は、出口で綺麗な女とすれ違った。肩まで伸ばしたロングの茶髪、大きな黒目、みどり縁のメガネ。左頬の小さな黒子。甘い香り。小ぶりの胸。一瞬のすれ違いだったにも関わらず、多くの情報量が俺に入ってきた。まあつまり、俺はその女に惚れたのだ。
 コンビニを出る時、傘立てには俺のビニール傘と、臙脂色の傘が刺さっていた。店内には俺一人しかいなかったことから、それが彼女のモノだということがわかった。
 ああ、それからだ、俺が臙脂色の傘に過剰反応するようになったのは。馬鹿みたいに傘を気にするようになったし、雨を毛嫌いしなくなった。そしてあのコンビニの傘立てに、臙脂色の傘が刺さっているのを見かけるたびに、俺は煙草を買いに入っていった。どうやら、あのコンビニが彼女にとっての最寄りらしい。
 しかし人見知りな上に奥手の俺は、いつになっても彼女に声をかけられなかった。進展は正義ではなく、希望だ。そして希望は表裏一体、絶望でもある。声をかけてドン引きだなんてこともあり得る。しかし彼女のことは心の底から好きだった。
 そんな想いを募らせ腐らせ、二年。俺はある都合で、この街を引っ越すことが決まってしまった。それもこの梅雨に。まだ彼女に、何も伝えていないのに。
 引っ越しが決まってから俺は、雨の日は必ずコンビニに行くようにした。会ったその日に、気持ちを告げるために。伝えなければ必ず後悔することを、俺はわかっていたからだ。
 しかし、彼女になかなか会うことは出来なかった。荷造りされ、梅雨に湿った段ボールが日に日に増え俺は焦っていく。
 もう会えないのかと諦めた、引っ越し前日。ついに、傘立てに臙脂色の傘がささっているのが見えた。彼女はレジで精算している、どうやら公共料金の支払いをしているようだ。
 とっさに俺は、コンビニの横に隠れた。しばらくして、彼女がコンビニから出て行くのが見え、俺は後ろを着いて行く。このまま家に帰るのだろうか、だったらチャンスだ。
 この時をずっと待っていた。もっと早くこうしていれば良かった。どうせサツに追われる身なのだから。何をしても怖くはない。彼女が家の玄関を開けた瞬間に、俺に長く付き合ってくれたこの傘で、背中を刺し抉ろう。怯んだ隙に、雨に濡れないように、家の中に連れ込むんだ。
 あとはその、美味しそうな黒子を抉っていただくだけ。

 


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〈 傘立て 〉

〈 段ボール 〉

〈 抉る 〉

 

残された結び目

 赤い糸、と呼ばれるものがある。
 それは運命の糸だなんて言われるけど、私はそうじゃないと思う。だって、赤い糸はきっと、血管の比喩。熱くて、命を流して、脈を打つ。
 そう、赤い糸は繋がる……じゃなくて、結ばれる。
 だって、例えどんなに愛し合って繋がったとしても、お互いの血と愛が流れてぶつかって、パンクしちゃうでしょ。それって、失恋よりも残酷。
 だから、結ぶんだ。それで、どうせ結ぶなら、固く。
 離れないように、何処にもいかないように、解けないように、固く固く結ぶ。
 例え、血管が痛いと悲鳴をあげても。貴方が、顔を歪ませ嘆いても。
 パンクするよりはいいと思う。愛のために、血を滴らせて流すなんて素敵じゃない。底に出来た二人の血溜まりは、生温い思い出なんかよりも価値があるはずだから。好きなだけ嘆いていれば良かったんだ。

 私には、赤い糸なんて見えない。
 だけど、結ぶのは誰よりも得意だった。
 解くのだって、同じぐらい。

 欲しい男がいたら、うまい具合に手繰り寄せて結んで。飽きたら解いてあげていた。
 赤い糸を運命と呼ぶのは、逃れられない快楽からの、支配的錯覚。
 運命だと思わないと狂っちゃうんだろうね。可愛い生き物。それに比べ、自覚し利用していた私は、とても醜い。
 ある日、異様なまでに欲しい貴方が現れた。
 時間をかけて、好きになっていた。これが本当の恋なんだと、目眩がした。
 花が好きだからと言うその趣向も、その寝惚けた眼差しも、少し赤い耳も、これから先の貴方の未来も、どうしても欲しかった。
 だから、私は強く強く、何重にも、固結びをした。手離さないように。
 最初の内は、貴方喜んでいたよね。私に血が流れるほどに熱く愛されて。共依存に陥って抜け出せないという毒を、笑顔で啜っていたよね。
 なのに、貴方は時が経って、愛が痛いだなんて嘆き始めた。
 心の内は、その愛が無いと生きていけないくせに。私無しには生きれなくなっていたくせに。
 固結びに自信のあった私は、特に焦りはしなかった。優しく宥めて、毒を注ぎ続けた。
 いつまでも一緒。そう毒に侵されていたのは、私だったね。
 気付けば、貴方はいなくなっていた。
 とても寒い夜、柔らかく結ばれた縄に、首を通して。
 馬鹿な人。だけど、私はそれ以上に馬鹿だ。
 いつまでも一緒にいれる、そんな私の自信が、何処までも私を哀しませ、狂わせた。貴方の未来も、耳も手も、趣向も、もう何処にも残されてないのだから。
 きっと、私の元にあるのは、この痛々しい、結び目だけ。

 

 運命だって受け入れられるような可愛さが、私にも欲しかった。


 

 

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〈 固結び 〉

〈 嘆く 〉

 

迷えるノースポール

「ママー……どこー……」
 少女の呼びかける声が、黄色くなった空と十字路に響く。
 迷子の声は、母にも、誰にも届かず、ただただ不安混じりが濃くなっていく。
 十字路を真っ直ぐ抜けた先、少女は白い砂浜を歩いていた。荒波が立てる音は、少女の呼ぶ声の気力を消し、無言の不安となり、やがて、目から雫となって落ちていく。
「ママ……」
 少女が呟く。
 その声に答えるように、少女は白い砂浜に水色の建物を見つけた。


「いらっしゃい、迷子さん」
 少女を出迎えたのは、二十代半ばのポロシャツを着た〈お姉さん〉だった。
 目線を合わせるように、お姉さんはしゃがむ。
「いつから迷子なの?」
「うう……さっき?」
「そっかそっか、貴女は運がいいね。うん、もう大丈夫よ」
 その言葉に少女が安心した瞬間、疲れが身体に回った。目尻がヒリヒリしている。
 お姉さんに案内されるがまま、少女は中に入っていく。水色の建物の中は、何処までも広く、何処までも続いていた。無造作に置かれた無数のベンチには、老若男女の人々が座っている。
「ここはどこなの?」
 前を歩くお姉さんに、少女は着いて行く。
「すべての迷子センター」
「すべての? あそこに座っている人たちは、迷子なの?」
「そう、迷子。まだ、迎えも来ず、帰る場所もわからないまま」
「……大人の人も、いるよ? どうして帰れないの?」
 大人は探す側じゃないの、とても言いたげな、少女の目。
「大人だって、迷子になるんだよ。探しているうちに、見つからなくなって、迷い込んで出口を失ってしまう」
 まるで、説明とは別に意思の篭った、お姉さんの声。
「だめだよ貴女。大人だから、子供だからって言ったら。そうやって責めて、大人になったときつらいのは、貴女なんだからね」
「ん、ん、大人もつらい?」
「つらいよ。でも、それを救ってくれる人がいるからこそ私たちは、しあわせ」
「わかった、じゃあ、帰ったらママもパパも、たくさん甘やかす」
「えらい!」
 お姉さんが、書類の散らかった机に辿り着き、席に座った。
 パソコンにかかった上着を払いのけ、電源をつける。
「どこで迷子になったか、わかる?」
「えっと、十字の道」
「なるほど。夕方?」
 お姉さんは、質問の答えに合わせ、キーボードを鳴らす。
「うん、うん」
「誰といた?」
「ママと、弟のヨシ君」
 最後の質問と答えを区切るように、エンターキーが押された。
「ふうん、……よし。わかったよ」
「ほんと?」
「ほんと。だけど、貴女から向かわないといけないね」
 そう言って、お姉さんが席を立った。
「案内するよ。あ、でもその前に……」
 お姉さんは帽子掛けにかかった黒い布を手に取り、少女の目が隠れるように巻いた。
「どうして、隠すの? こわいよ」
「ごめんね。でも、見えるから迷子になることだって、あるんだよ」
 少女の小さい手を、お姉さんは引く。
 お姉さんの冷たい手に、少女は引かれていく。
「まだ、まだ?」
「もう着くよ」
 重たい鉄が引きずられる音を、少女は聞いた。
「ここに、横になって」
 お姉さんにエスコートされ、少女は怯えながらも、少し硬いベッドに横なる。
「すぐに、ママに会えるよ」
 お姉さんの優しい声に、少女は考えることを止めた。
「はやく、帰りたいなあ。帰ったら、」
 少女の言葉を遮るように、お姉さんが横たわった小さな身体に、鎌を振り下ろした。


 少年の前で、姉だったモノが潰れて、道に転がっていた。
 そして、母が膝をつき、言葉を失っている。
 少年はそっと、母に抱きつき、肩を優しく叩いた。
「ママ、だいじょうぶだよ、大丈夫」
 やっと帰れた。
 そんな言葉が少年の胸の内に一瞬浮かんで、消えていく。

 


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〈 迷子センター 〉

夢寐病

 人工的な静けさに包まれた東京に、中央線の音だけが響いていた。
 乗客が存在しない電車は、もはや意味のない虚しい往復を繰り返している。
 二十四時間のコンビニも、眠らない街も、夢の幻だったみたいに機能していない。
 約二十日前。半数以上の都民が、まるで合わせたように、学校を、仕事を休み始めた。
「まるで、寝ているように身体がうまく動かない」
 数々の電話が、そう主張した。
 夢寐病。
 医者が見たこともない聞いたこともないと、両手を挙げている間に、メディアが勝手に付けた名前が広まっていた。
 わかっているのは、潜伏期間が非常に長く、かかれば身体が眠るように動かなくなっていく。苦痛も、空腹もなく、ただただ、身体が時間をかけて、微睡みの中へと落ちていく。
 加えて、未だに誰も治し方を見つけれていない。
 誰がどのタイミングで最初にかかったのか。日常的に電車の中で混ぜられ、様々な副都心を交差する都民にとって、それはもうわからないことだった。
 次々と、夢寐病にかかっていく、都民。
 しかし、蔓延した不治の病を、都民は心の底で喜んだ。
 安堵していた。救いだと思う者もいた。
 会社から、学校から、集団から。体力や気をもう使いたくない。雑踏から、意味のない通知から、離れたい。
 都民は、心の何処かで東京から解放されたいと、思っていたのだ。
 そして、それは僕もそうだった。
 八日前のこと。僕はついに夢寐病にかかった。
 かかる前に、東京を離れることだって出来た。けど、それをしなかったのは彼女の存在があったからだ。
「はなれないで」
 うわ言だったのかもしれない、けど、微睡みに囚われた彼女は一度だけ、確かにそう言った。
 愛しかったのが大きな理由だとは思う。でもその背景にあったのは、この非現実的で、静かな東京に麻痺されたというのもあるだろう。
 僕は許可もなく、彼女の横に寝転んでいた。本当に食欲もなく、微睡みの時間だけが流れていく。彼女とこうして長い間隣にいれるのは、いつぶりだろう。
 夢寐病にかからなければ、僕は、彼女とのずれた時間を取り戻せなかった。
「東京から解放されるって、こういうことだったんだね」
 僕の言葉に、彼女は何も答えない。
 もう四日間、彼女は何も口を開いていなかった。
 テレビはずっと砂嵐で、外からは小鳥の鳴き声がする。
 東京は死んでいくのか。いや、眠りに落ちていく、が正しいのかもしれない。きっと、疲れすぎたんだ。
 霞んだ視界の中、彼女の安らかな寝顔が見えた。
 僕は全てが霧のようにどうでも良くなって、東京と共に、微睡みに溶けていく。

 

 

 


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〈 都市 〉

〈 不治の病 〉