男が降りる駅を電車がアナウンスした。
いつも通り、着くまでに少し早いアナウンス、それを聞いた男がすぐに立ち上がり、扉の前へと移動する。
車窓の向こう側の景色がホームに入っていき、男は手提げ袋を右手から左手に持ち替えた。
改札まで走って五分。そこからバスに乗って、恋人が待つ家まで十分。
男はただただ、無心になって、心配を霧に隠していた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関を開けた男の言葉に、遠くからか細い女の声。
「大丈夫、何もなかった?」
男がいつものように、心配を含んだ声色を出してリビングへと入っていく。
ソファには、本を手にした女が座っていた。
身体から失われた脚。包帯の巻かれた断面を、宙に浮かせて。
「うん、大丈夫。何も無かったよ。ああ、でも」
「なに、どうしたの」
「甘いもの、食べたいかな」
女の言葉に、男は一瞬出た焦りを冷まし、安堵する。
「これ、食べようか」
そう言って、男が手に持っていた袋を持ち上げて女に見せた。
恋人たちの脚が四本から二本になって、十七ヶ月。
恋人たちが一緒に暮らし始めて、半年が経った。
「おいしい、これ、どこで買ったの?」
女がエクレアを頬張りながら、男に聞く。
「今日の仕事先の、最寄りの駅。いつも長蛇の列が出来てるお店なんだけど、今日は空いてたし、電車までの時間ちょっとあったから」
その言葉に女は「ふうん」と笑って返した。その様子を見て、男は再び安堵する。
男は欠けた恋人への不安という影を、心に落とし続けていた。
それは、女が飛び降り自殺という名の、男にとっての〈自己否定〉をされてから、ずっと。
仕事で家を離れている間、困っていないか。また生を遮るような漠然とした憂鬱に襲われて、命を絶とうとしないか。自身は今も力になれているのか。
あえかな恋人への心配危惧不安は、男を鎖で縛るように拘束する。
「ねえ」
「なあに」
男の慎重な声に、女は優しい声で返事をした。その声に男は油断しそうになって、伝えたい言葉が揺らぎ、短縮される。
「……今は、大丈夫かな」
そんな男の言葉に、クスっと女は笑った。
「心配性。大丈夫、心配しないで」
目を糸のように細めて笑う女の言葉に、嘘は無い。
何故なら、今の女には何も不自由がないからだ。
男が自身を見続けてくれる。男が自身を常に不安に思ってくれている。
女の欲しいものは、重くて甘い想いは、既に手に入っていた。
あえて、脚が失われることを、選んで。
nina_three_word.
〈 あえて 〉
〈 あえか 〉