kurayami.

暗黒という闇の淵から

夢のような現実、虚言

 何回めかのアラームを、怠惰な空間から手を伸ばして止めた。二月も終盤に掛かったというのに、冬の寒さが未だに、僕らに抵抗し、効果を見せていた。
 寒さと布団の拘束から逃れ、階下のリビングに降りると、母が僕にお弁当を作り、父が煙草を吸いながら新聞を読んでいる。
「あら、おはよう。起きないから起こそうと思ったのに」
 僕の方を見ず、母がそう言った。僕は椅子を引き席に着く、父が、吸い途中だった煙草を消した。息子に対して受動喫煙を気にしているのだ、僕はもう高校生三年生になったと言うのに、いつまで気にするのだろうか。
 テレビの中では、ニュースキャスターが、感情を込めず読み上げている。

 朝の情報交換に賑やかな教室に入り、席に着く。
「おはよう、遠野」
 隣の席の、山崎さんが声を掛けてきた。席替えをしてからというもの、山崎さんと話す機会は増えたと思う。
「これさ、好きだって言ってなかった?」
 そう言って山崎さんが渡してきたのは、僕が密かに応援しているアイドルのシールだった。
「雑誌のオマケについてきたんだ、遠野が喜ぶと思って」
「おお、これは……ありがとう」
「ほら、いつもノート見せて貰ったりしてるしさ」
「そんなの気にしなくていいのに」
 鐘が鳴り、しばらくして先生が入る。朝のホームルームが始まった。

「遠野、この調子で頑張れよ。期待してるからな」
 二限の日本史の授業が終わったとき、廊下で先生がそう微笑み、僕の肩に手を置いた。
「うわ、遠野はやっぱ頭良いなあ。羨ましいぜ」
 五限の数Bの授業が終わったとき、クラスメイトの太田が僕にそう話しかけた。
「先輩っコンビニ行くんですよね? お供してもいいですか?」
 昼休みになり外へ出たとき、後輩の竹田が駆け寄ってきた。
 人の数には、恵まれていた。
 話す相手には、困っていなかった。

 晩飯を済ませ、風呂を上がり携帯を確認すると、和美からメッセージ通知が来ていた。
『遠野くん、大好きだよ。今日は先に寝るね、おやすみなさい』
 僕は、その通知を開かずに、携帯を枕の横に投げた。溜息が出る。
 みんなもっと、上手に嘘をついてくれ。
 親も、先生も、クラスメイトも、彼女も。本心にないことばかりを行動する。正直な気持ちを言えばいいのに、それで僕と貴方の関係は変わることもないし、欲しい蜜だって与えるのに。
 嘘が無ければ、この現実が成り立たないと思っている。それは、本当にそうなのか。
 起こそうとした、なんて思ってもいないことは言わなければいい。煙草だって吸いたいときに吸えばいい。ノートが見せて欲しいなら正直にそう言えばいい。思ってもいない。期待もしていないだろ、下手なお世辞はいらない、先輩と仲良くする必要だってないんだ。
 好きじゃないなら、好きって言わなくていい。
 虚しい、だけじゃないか。
 僕には嘘にしか見えない。

 まだ冬の寒さだけ残る、現実の夜。僕は、布団の中で眠りについた。

 

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〈真偽〉

偽りの中の真

 目を覚ませば、私の部屋は逆さまだった。天井からぶら下がっていた電球が力なく、元々天井だった床に横たわっている。敷き布団の隙間から抜け出し、本棚を見れば、タイトルが逆さまになって、読めそうになかった。ううん、元々、本のタイトルの真意なんて、私にはわからなかったのかもしれないけれど。
 部屋を出ると、一面真紅色の廊下が長く、続いていた。家族の声はするけど、家族は見当たらない。それもそうだ、私は家族なんてものを、知らないのだから。一緒に住んでても、性行為をしたわけじゃない、したからと言って何かが見えるとも限らない。その程度の相手を、私は見えないんだ。
 私は浅く霧のかかったリビングに行き、蛇口を捻る。真底に冷たく、透明な液体が、グラスを満たした。

 逆さまの部屋の中から、私はお気に入りの青色のパーカーだった、黄色のパーカーを引っ張り出した。使いすぎて、色が変わったんだと思った。パジャマの上からパーカーを羽織って、外に出る。
 そこは、知人無人の街だった。誰も、知ってる人がいない。逆に言えば、きっとこの街には他人しかいない。
 私は知人無人が〈街〉で良かった! と胸をなでおろした。だって範囲が街だから、それならきっと、この街の外には、私を知っている人がいるんだと安心できる。
 でも、どこまで知人無人の街は、続いているんだろう。この色のない空は、どこまで、続いているのだろう。街って、どこからどこまでが、街なんだろうか。
 ふと足元を見れば、マンホールの隙間、誰かが暗く澄んだ目で私を覗いてる。見上げてる癖に、自分は安全圏にいるこの人は、強者か、敗者か。私はその無敵要塞に向かって、唾を吐いた、しね、と感情を込めずに。
 鈴の音が、遠く聞こえる。無彩色の家と家の隙間から。何の意味があるのかと考えたけど、きっとこう考えさせるためなのかなって、納得をする。二本の足で街を歩けば、鈴の音はどんどん増えていくけど、どこかそれが、街の雑踏を表していて、寂しくない。
 けど鈴の音を代わりにして、雑踏を奏でない街の人々は、どこか、虚無だ。
 美しい上半身を無くした彼女たちは、未来を見つける術が無いのか。
 逞しい下半身を失った彼らは、過去へと歩む術を持たないのか。
 上半身も、下半身も存在している私は、この現在の中で迷子にならないのだろうか。
 虚無なのは……私だってそうだ。信じることが中途半端で、目に見えるものすら受け入れていない。光に満ちたトンネル。真っ黒な太陽。足のつかない道路。私は、この目に見える世界を、偽りだと、思えない。
 だってこの世界は、偽りの中の真なのだから。

 

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〈真偽〉

花弁の言葉

 風間桂は、真夏の陽炎の中から現れ、櫻井李香に近づいた。
 白シャツに身を包んだ風間は、夏の匂いがする。
「ぜひ、貴方と共に飛び立ちたいんだ」
 交際を始めて二年、風間は李香にプロポーズをした。
 李香は風間を受け入れた。
「だって、私は貴方の虜だから」


 しばらくして、風間は何処かへ消えた。
 李香は、風間の行方を探すため、風間が昔住んでいたという町を、訪れる。出会った日のような、陽炎の踊る真夏日
 東京の区外にあるその町は、ひっそりと、埼玉県沿いに存在した。
 しかし、風間の実家だという住所には、家がない。
 その近辺で『風間』について李香は聞いてみるも、誰も『風間』という苗字に反応を示すことはなかった。
 手掛かりを掴めず、諦めて帰ろうと駅のホームに座っているとき、李香は一人の女性に声をかけられた。
 ――風間、風間桂について聞いてると聞きました。
 李香は、ええ、ええ、そうです、と立ち上がる。
 しかし、その女性から出た言葉、李香にとって、信じられないものだった。
 ――あの、知ってることはなんでも教えてください。桂は、私の、私の婚約者なんです。
 駅のホームで、ツクツクボウシが鳴いてる。


 風間桂という偽名を持った男は、結婚詐欺をメインにした、詐欺師だった。
「俺は、偽り」
 今回の、ターゲットからの搾取できた分を、男は数える。しかし、どんなにその紙幣が多くても、男は満足が出来ない。
 詐欺師は、男が別人になりたくて始めたことだった。____ではない、誰かになりたくて。
 しかし、男にとって、どんなに正反対を演じても、風間桂は____と離れない。まるで対のように、近く。
 だからこそ、今回の仕事が、男の頭から離れなかった。


 櫻井李香は、帰りの電車の中で考えていた。
 結婚前に返さないといけない金があるんだと相談され、多額の金額を出したこと。雪の降った日には、犬のように窓の外を見てはしゃいでいた彼のことを。二人で暮らしていた狭いアパートでの思い出を。
 李香が奪われたのは金だけではなかった。例え、それが偽りだったとしても、風間桂という名前が存在しなくても。李香に見えていたものは、その男だ。
 ――心すら、返ってこない。


 男は、ベランダでタバコを吸いながら、李香との約束を思い出していた。
 春に、柚子の花を見に行こうという、約束を。偽りでなければ、叶ったであろう、約束を。
 ――しかし、それももう叶わない。
 
 偽られた者、偽った者が「恋の溜息」を、口から漏らした。

 

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〈風船葛〉〈鬼灯〉〈桃〉〈溜息〉

 

オフホワイト

80

「お前そんな、髪を結うほど長くないだろう」
 輸送ヘリの中、カイの手首に巻かれたヘアゴムを見てジンが言った。
「ああ、これは……大事なパートナーからのお守りだ」
「そうか、お前の」
 それを聞いたジンが、微笑む。
「なあカイ、お前のパートナー、でかいって聞いたけどほんとかあ?」
 隣で聞いていたトウカが、下品な仕草をして聞いた。
「ああ、でもお前ほどじゃないよトウカ」
 笑ってカイが返す。
 灰色の戦闘服を着た男たち。その三人の手首には腕時計の形をした、心電図が取り付けられていた。

78

 二日前。カイは恋人であるリンの病室を訪れた。
 心臓の病を患うリンは、病室からは出られない。
「もう出撃なんて、そんな急に来るものなのね」
「ああ、まあ、俺たちの部隊そのものが即席みたいなものだし……こんな扱いだろうな」
 輸血用のチューブに繋がれたリンが、カイの話を聞いて切なそうに俯いた。
「心配するなよ。演習でも上手くいったじゃないか」
 リンの手を取り、カイが励ます。
「大丈夫、俺一人じゃない、二人で勝ち取るんだ」

 〈オフホワイト〉……それは、軍事用戦闘服の名称。
 元々は着た者の心拍数を感知し、身体能力を向上させる戦闘服だったが、実戦的ではないと一度思案され、改良された。
 闘う者と、そのパートナーの心拍数に呼応し、力を増す。想う心を、力にする戦闘服へと。

「そうね、二人で……」
 不安そうに、手を握るリン。
「俺は絶対帰るさ。任務の翌日にはリンの手術に立ち会うんだ。それで、終わったら好きなものを食べに行こう!」
「好きなもの……カイは何を食べたい?」
「俺? そうだなあ、魚か、肉か……」
 真剣に悩むカイを見て、リンが笑う。
「ふふ、じゃあお刺身にしましょう。白から赤、橙色まで揃えて、鮮やかにするの」
「橙色、サーモンもか!」
「そうよ、カイの好きなサーモンも。だから、生きて帰ってね、約束」
「……わかった、約束だ」
 夜を迎えた病室の中、二人は、指切りで約束を交わした。

88

「そろそろか」
 ジンが、身を乗り出した。そこは、砂漠地帯に位置した乾いた廃墟の町。
 任務は、潜伏している敵の残党組織の殲滅、及びリーダーの死亡確認。
「スーツの効力に頼るな、訓練通り、撃退。ヘリを降り次第別行動。いいな、必ず帰るぞ」
「ああ」
「おうよ」
 三人はパートナーの心拍数を確認した。予定時刻、心拍数は九十を越える。
 ヘリから降下し、任務が開始された。

92

 リンの高い心拍数により、カイは素早く動き、建物の中にいた残党を撃ち殺していく。身体向上は、視力、握力にも及び、手ブレを抑え、遠くの敵を射撃することができた。

110

「……カイ」

122

 カイは、建物から建物へ移り、敵を確実に、無駄なく一発で仕留めていく。

169

「ごめんね」

 カイに、心電図を見る余裕はなかった。不意に現れた敵を、ナイフで仕留める。派手に飛び散る鮮血に、違和感を得る。

220

「私……約束、守れないかもしれない」

280

 その建物の奥、苦戦していたトウカの元に、カイが滑り込む。そこにはターゲットのリーダー格の男がいる。
「やっと見つけたんだけどよ、思ってたより数多い。カイ、いまそっち……心拍いくつよ」
 トウカに聞かれ、カイが、心電図を見た。
 そこに表示される数字は、三百。
 不意に、後ろから集中射撃を受け、二人が倒れる。広がる血の海の中を、弾は続けて撃たれた。
 静寂と硝煙。その中。リビングデッドのように、カイが立ち上がった。
 想う力は、壊れた身体を動かし、敵を蹂躙する。

「約束……守れそうに、ないなあ……」

 

 

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〈戦闘服〉〈刺身〉〈指切り〉

ヴァレンタイン

 二月十四日 火曜日
 ついに戦闘服の実験段階に入った。狭い室内で論文ばかり書いてるよりかは、こうして実験をするほうが気が晴れる。
 このプロジェクトに名前を求められ、今日の日付に因んで〈ヴァレンタイン〉と名付けた。意味はどうでもいい、呼び名がないのは確かに不便だったが。
 ヴァレンタインのシステム作製に、二年の月日がかかった。倫理がどうだとか、反対意見も多く、なかなか実行できなかった。愚かな連中だ。
 遂に、遂に明日から実験だ。腕がなる。

 二月十五日 水曜日
 一日目から素晴らしい結果だ。良い。
 戦闘服ヴァレンタインは、頭からつま先までの全身を包み、刺激に呼応して力を発揮する仕組みだ。
 だから、実物を見たときは、それが叶っていて感動をした。その機能を持ちながら、防御の役割が薄いのだ。素晴らしい。
 被験体に使ったのは、年齢二十二の男性。身長百七十六センチ。体重七十二キロ。
 早速被験体一号に着せ、刺激を与えてみた。
 細い針を、一部一部に刺す実験をする。結果は成功。各々の向上が見られた。
 被験体一号は、眼球を刺された時点で失神。実験はそこで終えた。
 明日も被験体一号は使えるだろう。

 二月十六日 木曜日
 実験二日目。被験体一号が絶命。だがしかし、素晴らしい。
 昨日、眼球を刺激したことにより、視力の向上が見られた。しかし眼球への刺激が脳に繋がったらしく、終始被験体一号は思考を停止していた。改良が必要な点となる。
 しかし筋肉の活性化は衰えた様子はなかった。
 思考実験も兼ねていた実験は中止になり、被験体一号の処分に迷った末、急遽新しい実験を行った。
 ヴァレンタインを着せたまま切り刻んだ後の結果が知りたくなった。その思考停止に加え、筋肉の活性をしている状態から興味が湧いたからだ。
 機会にかけ、被験体一号を、三枚下ろしのような状態にし、頭から下は刺身のように切り分けた。
 結果は素晴らしいものだった。ヴァレンタインが付着してる部位は、生命として維持されていた。(一時間後には活動を停止)
 首だけとなり、まるで恐怖に近い感情のリズムで、被験体一号は二時間ほど呼吸をしていた。
 良いデータが取れた一日となった。

 二月十七日 金曜日
 実験はなく、この二日間のデータをまとめ、ヴァレンタインの調整。新しい機能を思いつき、過去のバイオ実験と合わせ構成をする。
 少し疲れた。

 二月十八日 土曜日
 昨日に引き続き、実験のデータをまとめ、ヴァレンタインの強化の調整をする。明日は新しい実験が出来ることだろう、楽しみだ。
 そういえば今日、廊下で反対派の男と喧嘩になった。新米の兵士だった。気に食わない、被験体三号はあの男にしよう。

 二月十九日 日曜日
 被験体二号。年齢二十一。女性。身長百六十センチ。体重五十四キロ。
 初対面から睨めつけてきた、気に食わん。すぐに実験に取り掛かる。
 新しいヴァレンタインに、脳への刺激調整を加え、再生機能を付けた。
 指を切るも、すぐに再生し、何度切っても指が生え、再生の面は満足がいった。(しかし、どういうわけか、たまに二股に生えてしまう。これは調整が必要だろうか)
 被験体二号が苦痛に叫び声を上げていた。良い気味だ。
 実験外になったが、腹、右胸、左足にナイフを刺す。これにも叫びながら、再生をしていた。
 もちろん、筋肉の活性化は見られ、被験体一号の時より安定して見られた。
 素晴らしい。

 二月二十日 月曜日
 実験途中だ。長引き、朝方までかかる予定となった。
 実験開始早々、被験体二号に蹴りを入れられた。信じられない。
 私は、ありとあらゆる拷問を加え、痛みを与えた。
 素晴らしいデータだ。

 


 3・14 Tue
 ヴァレンタインプロジェクト責任者、坂上博士の記録日記を、資料としつつ、新規プロジェクトの記録帳にします。
 ヴァレンタインプロジェクトの失敗は、痛覚の無限性にあります。
 事故当日、実験場には幾つかの拷問の痕跡が見られ、坂上博士が被験体二号に対し、私念を込めた実験を行っていたと見られます。
 与えられ続けた痛覚により、活性化した細胞により暴走し、被験体二号は坂上博士を殺害し、脱走をしました。
 制御出来なければ意味がありません。これを反省し、新規プロジェクトではヴァレンタインで使われた〈心拍〉に呼応するシステムを使った、新しい戦闘服の作製に入ります。
 プロジェクト名は、ホワイト。

 

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〈戦闘服〉〈刺身〉〈指切り〉

 

ソウルシステムバグ

「にゃあ。にゃあ」
 声のした方を、美沙は振り返った。しかし、そこに声はなく、美沙のベッドが置かれている。
 気のせいか、と美沙は勉強机に向き直す。大学での試験が近く、美沙はノートを見返していた。
「にゃあ」
 また明らかに、猫の鳴き真似をする男の子の声が聞こえ、美沙は振り返った。
「にゃ、にゃ」
 よく見ると、ベッドの枕の脇、
 三毛猫のぬいぐるみがもぞもぞと動いている。
 しばらく、凝視をする美沙。猫のぬいぐるみは、ころっと転がり、ベッドの中央に来た。可愛らしく、顔を上げる。
 幻覚だとか、疲れてるだとか、美沙の中で様々な推測が出たが、一周して、これは現実だということと、一瞬の恐怖は、その愛らしさと夜中の魔力で吹き飛ぶ。
 恐る恐る、手を伸ばし、手の甲で撫でると、ぬいぐるみの心地。
「にゃ、にゃあ」
 しかし、美沙にとって疑問なのは、それが男の子の猫の鳴き真似だということ。
「……名前は?」
 初対面のセオリーに従い、美沙は三毛猫のぬいぐるみに名前を聞く。
「にゃあ! にゃ……いや、えっと、その、すいませんわからないです……」
 ぬいぐるみは、不安そうに、幼い男の子の声で喋った。

「猫って、にゃあって鳴くじゃないですか」
 ぬいぐるみは、申し訳なさそうにそう言った。
「そうすることが自然だと、思って」
「なるほど」
 美沙は話を聞きながら、ぬいぐるみにホットミルクを出した。
「……なんでホットミルクなんですか?」
「いや、正直、どう扱えば良いのかわからなくて。とりあえず、猫として」
「美沙さん、でしたっけ。猫にホットミルクを与えちゃいけないんですよ」
「そうなの?」
「暖かいと胃に膜を張って良くないんだとか。まあ僕は猫じゃないんでいいんですけど」
 ぬいぐるみは、そう言ってホットミルクの器に手を当て、暖を取る。
「猫じゃないのなら、なんなの。ぬいぐるみ?」
「そもそも、ぬいぐるみも、猫も喋らないですよ。気づいたら知識と魂の僕があって、ここにいて。ないのは記憶だけです」
 ぬいぐるみは、寂しそうに俯く。
「うーん」
 美沙が悩むのは、この存在の害悪の可能性などではなく、これからどう暮らしていくか、ということだった。
「あの、もし良ければ名前をくれませんか?」
「そうだね。それで悩んでたのもあったんだけど、シャドウキラーとネコマタ、どっちがいい?」
「ネコマタで」
 美沙と、ネコマタの同居生活が、こうして始まった。

 奇妙な生活は、美沙のメンタルケアをネコマタがすることで、成り立った。
「ネコマタや、ネコマタや、帰ったぞ」
「おかえりなさい、美沙さん。寝る前に着替えてくださいね」
 一人暮らしの中に、生活を正してくれる人が存在しなかった美沙の生活は、だらしがなかった。
「美沙さん、今日は燃えるゴミの日ですよ。今日逃すと二週分のゴミが溜まります」
「なに、それは大変だ」
 そもそも、食を必要としないネコマタに対して、美沙は何の負担もなかった。
「ねえねえネコマタ、なに読んでるの?」
 窓際で本を読むネコマタに、人懐っこそうに美沙が聞く。
「生まれ変わりについて書かれた本ですよ」
 ネコマタは美沙にわかりやすく、噛み砕いて本の説明をした。
「うわ、それ私がまだ読んでないやつだ」
「他の人の考えって面白いですよ」
「ふうん。生まれ変わりね、ネコマタはどう思うの?」
「たぶん、そういうシステムはあると思います。現に僕の存在が証明というか……」
 美沙は、ネコマタの話を真面目に聞く。
「僕は、たぶんなんですけど、このシステムで言うところのバグなんじゃないかなって思うんです。サイクルの輪から偶然漏れてしまったモノが、きっと、僕なんだって」
「うーん、うーん。バグって言い方はあまり、好きじゃないなあ」
 わかる言葉だけを理解した美沙が、首を傾げる。
「どうしてですか?」
「バグって、いかにも悪い言い方じゃんか。こんなに良い子で出来る子なのに、バグってのは、違うと思うよ。きっと。わからないけどさ、ここに来るべきして、来たんじゃないかなあ、ネコマタは」
 自分が考えもしなかったことを言われ、ネコマタは唖然とし、数秒の間の後、少し照れる。
「美沙さんが言うなら、そうなのかもしれないですね」
 しかし、ネコマタが自身の存在を悟ったその日から、変化が訪れた。
「美沙さん、おかありなさい」
 発する言葉が、次第に少なくなっていく。そして、行動もどこか遅くなっていき、何もない壁を向いて、喋るようになった。
「美沙さん、だいじょ  ですか」
 壊れたレコーダーのように、音が途切れていく。
「なな、泣かカカカ   ほっと る う  アアアアアアア」
 悟った日から、一週間経ったその日。ネコマタは、聞き取れない言葉を叫び、悶えるように身体を動かし、そして、日付が変わる寸前、ネコマタは消滅していった。美沙と、生活に欠陥を、残して。

 

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〈ぬいぐるみ〉〈ホットミルク〉

 

 

手のひらの中の神聖

 元々、君の声には説得力があった。
「返事を催促するような人に、返事をしてはいけません」
 四つ下の君は、愚痴を零した僕に、優しく敬語で諭す。
「ううん、でも長年の友達だしな」
 その友達は、長い付き合いだった。しかし連絡ならともかく、世間話の返事ですら催促をしてくる、僕は少しだけ、うんざりしていた。
「いいんですよ、その程度で縁が切れるなら、その程度なんです」
 その言葉は、まるで許すように、優しい。
「そうだね、そうかもしれない」
 きっと、僕一人なら、連絡を切るだなんて選択肢はなかったと思う。実際連絡を切ってみて、肩の荷は降りたんだ。

 君と一緒にいることで、助かったこと、救われたことは多かった。

 それは君の優しい声色と口調はもちろん、その綺麗な容姿を含めて、説得力があったからだ。だから、素直にその言葉を信じ、受け入れていたんだと思う。
 風邪を拗らせたとき、君は付きっきりで、僕の看病をしてくれた。朦朧とする意識の中、部屋の照明を背にした君がシルエットになって、揺れる長い髪の影が、どこか神秘的で、辛い体調による不安が、和らぐ。
「……神さま……いや、女神?」
「ふふ、馬鹿みたいなこと言ってないで、ゆっくり治してください」
 君はそう言って、僕の目を小さな手で覆った。優しく落ち着いた暗闇、静かに眠りに落ちていく。

 光も闇も纏う君は、何者なんだろう。

 別に、普段から甘えてるつもりはなかった。むしろ歳上の僕が、普段は君から甘えられていたはずだ。僕は、決して弱いわけではなかった。
 ただ、たまに見せる、甘く優しいその顔が、なによりも強く、癖になる。
「こうして私の元に帰ってくるだけで、偉いですよ、とっても」
 疲れて帰った僕を、賞賛し。
「仕事が辛いなら、人間関係の少ない仕事を選びなおしましょう。大丈夫ですよ」
 弱音を吐く僕に、選択を与え。
「あら、良い子ではないですね……少しの間、この部屋で正座しててください」
 荒れた僕に対し、罰を渡し。
「あまり夜更かしをしてはいけません、私と一緒に寝ましょう」
 僕が飢えた頃に、飴を投げる。
 ルールもなにもない僕の日常は、君がいることで大きく変わって、秩序のある日常へとなったんだ。
 ああ、僕にとって君は神さまで、正しさで、教えで、導きで、救い。
「まるで、宗教みたいだ」……だから、君無しじゃ生きれないよ。
 ぽつりと呟いた僕の言葉に、優しく微笑む君。全部わかってるとでも言うように、その小さな手が、また、暗闇を齎した。

 

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〈「宗教みたい」を含んだ台詞 〉