kurayami.

暗黒という闇の淵から

この手を離さない

 彼女の手を引いて、見慣れた街の路地裏を走っていく。建物と建物の間を見たこともない飛行機が飛んでいくのが見えて、数秒後には肌が震えるような爆発音がした。
「近いね」
 分かりきった事を言う彼女に、僕は「うん」とだけ返す。本当は彼女の言葉を、いつものように聞いていない。唯一考えているのは、何処に逃げるかということだけ。
 戦火と兵隊の魔の手が届かない〈絶対に安全に限りなく近い場所〉を考える。いくつも候補を出して何度も思案して、結局、ここから一番近い元仕事先の納屋を選んだ。あまり選びたくない場所だったけど、もう悩んでる暇はない。
「行こう」
 僕は彼女の手を再び握り直して、路地裏の先へと急ぐ。
 必ず、全てが終わるまで離さないと決めて。
 辿り着いた店、僕が働いていた精肉屋は、既に物の抜け殻になっていた。稼いでいたであろう主人のおっさんは、国の外に逃げたに違いない。
 僕たちは精肉屋の裏、その奥にある、石作りの物置きの中へ入り込んだ。
 座り込んだ瞬間、汗がどっと出る。僕も彼女も、ずっと走っていたこともあって、息が上がっていた。
 一先ずこれで一安心。
「なるほど、ここなら見つからないかもね」
 もう息を整えた彼女が、すまし顔をして言った。
「そ、うだね。だけど、でも、ほら。狭いし……街の真ん中だし、立て籠もるのにはあまり……」
「ううん。私なんて逃げる場所すら思いつかなかったよ。満点だと思う」
 落ち込む僕を彼女が励ます。いつもならここで「本当だよ」だとか「どんくさい」って茶化すのに。普段とは違うやり取りが、この非現実を物語ってしまっている。
 南西の帝国が、ついにこの北の国まで侵略を伸ばし始めた。
 僕たちの知らない軍事力で、圧倒的速さで。
「みんな殺されちゃうのかなあ」
 石壁に身を預けた彼女が、宙を見て呟いた。
「わからないな……だけど、あいつらなら上手く逃げれたはずだよ」
「ううん。そうじゃないの。みんな、殺されちゃうのかなって」
 彼女が同じ言葉を同じトーンで言い直したけど、僕にはその意味がわからない。
「なにを……」
 僕が言いかけた時、外から物音がした。
 硬いブーツの踵の音。
 外から来た軍人が、走る音だった。
「きた」
 彼女が声を小さくして呟く。けど相変わらず、すまし顔のまま、焦らないまま。
 ブーツの踵は、物を探すように立ち止まったり、走ったりしている。
 すぐそこを、壁の向こうを。
 遠くから聞こえた銃声音に、僕は身体を強張らせる。それを見た彼女が「大丈夫、大丈夫よ」と、握った僕の手を余裕を見せて撫でた。
 ああ、なんでそんな、すました顔でいられるのか。
 なぜ。
 知っているはずだよ。帝国の軍人は『男を見つけ次第殺せ、女は捕まえろ』と命令されているって、知っているはずなのに。
 どうして僕が、死の間際にいるのに、そんな顔でいられるんだ。
 どうして、一緒に、怯えてくれないの。 

 まさか、僕が死んでも構わないだなんて、思ってないだろう?
 ねえ。僕を失いたくないってその顔を、見せてくれよ。

 

 

 

 

 


nina_three_word.

〈 ブーツ 〉
〈 すまし顔 〉
〈 帝国 〉